自分の立つ位置に戻った理由?

 私が、自分の住処に戻ろうと決心したのは、疲れ果てた生活の金銭問題の為に立ち行かなくなったからである。一刻も早くこの問題を片付けなければならないと追い詰められた。それが第一であったが、突然自分の躰から噴き出したのは(何故、私はここにいるのだろうという)疑問が湧いたからだ。私は、何をした?

 何を起こしたのだ。東大阪市の居住を捨てて、他市に移住しようと決心したのは、マンション内で起こった私への排斥は、突然、誹謗中傷という形から起こった。

内容については最初のプログ通りであるが、私には、耐えがたい内容である。

その時に私が、選択した行為は、この場所から逃げだす事であった。

このままここに存在することは、自殺という行為を選択せざるを得ない恐怖感が私を襲ったのである。

 それは私が、幼い頃から味わった集団ヒステリーの始まりを予測した私に何か起こる時は、話題を提供される事象がある場合である。

そこには、なにか満たされない思いを持つ、首謀者となる人間が出てくる。

積極的に動き周辺を巻き込む頭の良い人の特性でもある。

 世界的なCorona禍というパンデミックを彼女に、あたえられた口実は深く大きい、誰も疑わず彼女のシナリオに沿って役割を果たし、効果は万全だ。

そこにまた次のも創作されて大きな演出は、人々を狂わせていく。

 私は、Corona禍のために首謀者Aシナリオ通り、職場への出動を止められ、Aの言われる通り自宅で仕事をすることになった。様々な分野の違う若い人たちは私のために自宅へ訪問することになったが、もう一人の首謀者Bは卑しい口実を付けて貶め、日夜、吉田公恵を3階から、見張っているから間違いないと文章化されている。その文章化については、マンションの女性掃除責任者Cは私に、書いた内容について申し述べている。

 その後、化粧品会社の商品が繰り返し送られるようになり私は、東大阪市消費者センターへ苦情を申し立てて解決したが、女性マンション掃除管理人Cは、私が、東大阪消費者センターに申し立てを行ったことを確認している。

Cとは、電車の中で偶然出会った日、「Cさんは、マンションだけでなく他の仕事もされているのですか」と聞いたのは、化粧品会社の事に疑いを持ったからだ。

私の化粧品会社事件は、その後、同じパターンにより東大阪市消費者センターに申し出た人が、現れ注意事項が、マンション内掲示板に貼られている。

私は、それ以降は、自宅への訪問者にはマンションの部屋のドアを開け放ち、ドアに一掲示板に訪問者の名前を書き職業も書き備え、何時でも確認するように告げておいた。

 私は、一刻も早くと焦り、不動産業者に連絡を取り荷物を預ける倉庫と新たな居住場所を選択することであった。しかし、私は自分の年齢のために借家も借りられない状況を知ることになり、自己の仕事に夢中になり、現在、日本における社会の高齢者施策には厳しい制限があることに気づかされて自分の住み生きる場所さえ決めることのできない社会構造を出来上がっていることは、恐怖に震えるほどの厳しいものであることに気づかされた。

 身内の保証人の出番である。しかし、身内の保証人を得られない場合は、方法はない。むしろ、何ももっていない者は、国が助ける方法もあるかもしれないが、私自身は長年、仕事をしてきたおかげでそれなりに借金は多くありながら、持っているものもある。

家具類、この度のAの言う保育園を3軒も持ち家具を贅沢しているという原資の根拠を申し述べる。家具類は(40年以上前に心斎橋の女性社長「リチヤード」にて分割払いで購入し、その後「リチヤード」は倒産されている。(私には関係ない)外国製の商品が多く私の感性に訴えてくれた素晴らしい物です。Aは家具3点、ガラス製のテーブル一点をもって賛沢していると指摘されてその言葉で多くの人たちが誤解し翻弄された。洋服類が多い。(高校をでて難波デザイナー学院卒業後、現大阪芸術大学卒業)デザインは後に、保育ロッカーの独自性をデザインして現在、特許を取得している。そのほかでは日本製の食器戸棚、日本製の鏡台は母の形見、日本製の下駄箱は、廃棄処分後のアルミ製? の1万円からのもの置台は簡易な5台は私の保育関係、大学への出向の書類は。学生たちの試験用紙等今回、かなりの書類を破棄しました。自宅に戻ってきた私の引っ越しにも箱の多さで、また私への憎悪が沸き起こったようです。しかし残念ながら箱の内部を見ていない方には残念です。私の描いている絵画類、論文、小説類、調査したい方は、何時でも開示いたします。しかし、私は。子どもの頃は父のお陰でアメリカ製のリンカーンを乗せてもらっていました。

 しかし、その後は車を自分で持ったことは一度もありません。女性掃除管理人Cはその件を3階の女性Bと会話を交わして文章を書いたと原質を私に伝えたにも関わらず言っていないと現在は取り消している。

 マンションを借りようとしたが、年齢及び保証人を立てられず、その時に奔走してくれた「中野興産」の中野様には大変なご努力を頂きました。おかげさまで保証人問題をクリアー出来て三重県のマンションに入室できました。改めてこの場をお借りしてお礼を申し上げます。

 幾日だったか、記憶に乏しいが、引っ越す数日前、私は上本町の電車乗り場にたっていた。一人の女性が、私の横に立っていた。電車のアナウンスが、電車の到着時聞を告げていた。いつの間にか女性の姿は、消えて男性が私の横に並んだ。

 見知った顔のように見えるが、漠然としてわからない。

電車が、到着すると、男性は私を電車のドアが開くと押し出すように私を電車の中に押し込んだ。男性は駅に佇みドアのガラス越しにホームに立ったままでわたしを見つめていた。

 電車に飛び込もうとしているかのような私をその人は不審に思ったのだろうか? 今考えると私は、精神的にかなりまいっていたのは事実だ。

「死にたい」と何度も繰り返して呟いたのも真実である。(私は起訴を起こすことの面倒臭さの思いも去来していた(メンドークセエー)年齢の待ったなしの私には、もうどうでもいいと思うこともある。

 東大阪市のマンションから逃亡した最大の原因は、最初のブログに書いた5階に住むと言う(自称5階居住女性は。私に言ったのは、後に私に自分は6階に住むKであると額田の大阪行きの方面乗り場で名乗っている。私に嘘をついていたことを隠したかったのか。それとも私に別人であるかのように装いたかったのか? なんと稚拙な嘘をつくのだろうと疑った。おそらく私を高齢者だからとCamouflageを目論んだかなと思い、また稚拙なI嘘をつくのだろうと二度がっかりした。彼女は偶然を装い、たまたまであったかのように話をする。

額田の駅で彼女は、椅子にすわりオレンジのジャンパー姿の男性と腰かけていたので、私が、通ると立ち上がりわたしの横に腰かけたのでご主人ですか。と伝えると違うと言った言葉に私は思い出した。「私の夫は吉田さんと一緒の年齢です」そのことと共に、2階のYとは時々話すと言っていた言葉も幾度か聞いている。その時、ジャンパーの背の高い男性は私を見ながらホームの前にすすんだ。

私は、最初は、彼女が自分の付き合っている男性を私に魅せたかったのかと想像したが、私は、その日は特に気分がすぐれず上本町の喫茶店に行きたいと思ったので、電車に乗り込むと彼女も乗り込み、自分は瓢箪山に買い物に行くと言いながら、買い物袋も財布も持っている様子がなかったので不信を覚えた。その後、瓢箪山で降りたが、オレンジの男性は、何処で降りたのか、見受けられなかった。

彼女は、私が、何処へ行くのか聞き、オレンジの男性に伝えるべく用意していたのかと私の中に彼女への疑いを覚え、気分が悪くなった。

 私のマンション中で響く乱暴な声で私への誹務中傷をまき散らしたことは、明白な事実である。その事実を知っている人間は相当数いるに違いないが、沈黙を通している。それらとは別に2階に住む女性Yは職場への出勤を他の女性と共にcorona禍を理由に阻止された事実は、足の手術のため大阪市大病院で手術後、治療の引継ぎにより治療のため毎日通っていた病院への2週間にいちどの通院に変更するために理由書を提出することになった。

彼女は、私を「保育園を3軒も持ち賛沢な家具を置き、賛沢に暮らしている」と近隣の住民に流したために多くの人々に誤解と錯覚を与えた。

 マンション管理人の一方的な好意行動は。二階のY女性の言動が引き金になり、私が他府県に土地を持ち、新たな計画を知ったから急激に近づいたのである。

 私は、管理人のいる時間帯には一歩も出ず生活を余儀なくされることになった。一度は、三重県に引っ越したあとマンションに戻り、郵便物を取り、ポストにいった時、マンション管理人Nその時、黒のコートを着た女性の前で私を罵倒されてから、私は管理人に恐怖感を覚えるようになった。

 話は、前後するが、近くの交番所から、高齢者の安否確認の見回りの日、私が、2階の出入り口に外出しようとしたとき、管理人Nが私を抱こうとした。大声で警察官を呼ぶと、警察官は、(どこです?)と駆け寄ってくれたのだが、姿はすぐに消えたのである。その日が非番であったかどうかはわからないが。私その日より警戒をよりするようになったのは、ノイローゼ気味になっていく自分の姿が、恐ろしくなっていく。3階に居住する女性Aの誹誘中傷の中身は、私の部屋を毎日、監視していたという事実を、マンション掃除管理人は詳細に述べた文章があるにもかからず現在は、全面的に自己否定するのは、正義感のなさ、弱さであるだろう。それは自己保身以外何でもない。

私が、最初に逃げ出す前に法的に訴えなかったのは、事業を何年もした人間の私は、働く人々の暮らしを深く知っていたたことが、自分と共に苦境に追い込みたくない考えが深く染みわたっている。

 しかし、それが私自身を苦境に追い込み、より生活基盤を揺るがせ、様々なところに信用を無くす結果を招いた。

信用というのは一度、地に落ちると疲れた鴉のように黒々と道端に転がるだけである。二度と鴉は立ち上がる気力はないけれど最後のカを振り絞って私はブログを再度書く。

 それは私を保育園に戻せと言う人々が、存在してくれたという事実を知ったからです。誰、がどのような言葉で私を「しっかりしろよ」とお尻を叩いてくれたのかは聞いていないけれど、励ましてくれてありがとう。

「貴女は優しい人間だよ」って認めてくれてありがとう。

 三重県津新町のPEERの皆さん! 津新町で、出会った優しい皆さんにお礼を申し上げます。そして東大阪市の小坂病院主治医渡遺琢也先生心からお礼申し上げます。勇気と生きる覚悟を頂きました。

 Hauser Stjepan Cellさんには、多くの幸せとあなたの美しい音色は、私を癒し幸せを頂きました、皆さんへ心よりお礼を申し上げます。

 私は、生き方のへたくそな人間ですが「頑張ってみるぜ!」これからもよろしくお願いいたします。

私の大好きな優しい人々へ。

2024年3月5日 吉田公恵

お別れのメッセージ

 2023年12月16日 三重県より東大阪市に帰ってきた。三重県で過ごした私は、仕事をする目的があったのは事実だが、夢破れて戻るべく自分の行く末を如何にすべきか。
仕方のない選択であった。
もう一度、東大阪市に戻るために、引っ越しをサカイ引越センターに頼んだのは、当初三重県に引っ越した時、非常に丁寧な仕事で、若者たちに世話になり、感激した印象が強く残り再度、お願いすることになった。

 引っ越し荷物を整理するにあたり思いがけなく、10年近く仕事をした、あやめ保育園のWildstrawberry組の職員と子ども達のお別れのメッセージを送られて来ていたことを私は知らないままにいたのだが、荷物の中に梱包されていたのを発見して胸が熱くなった

2 0 2 4年1月8日吉田公恵

K君が変えた運動会の話

下肢麻痺児K君

 エンゼル保育園は障碍児保育を積極的に受け入れてきたが、K君は下肢麻痺症状で日常的には、保育士の全面介助を必要としていた、保育の一環として運動会が近づきK君の両親、担当保育士、主任保育士の私、で話し合いを持った。
母親の意向は徒競争を他児と共にK君を参加させたいと意思表明をされたのである。
私たちは、他児とK君を共に走らせるのは精神的にK君が寂しい思いをするのではと危倶したのである。

 真っ青な空に白い雲が広がった秋晴れの運動会の日。毎年、エンゼル保育園は、小学校の運動場を借りて盛大に行ってきた。
年齢ごとの徒競走が終わり、最終プログラム、卒園児の徒競走が始まった。スタートラインに並んだ5歳児の6名は保育士の笛の音で走り出し、K君も膝を曲げて車輪のついたボードに乗り、手で漕ぎながら他児に引き離されながらも追いかけていく。

 その姿は、広がる空の青い空間と白い雲の明るさは、観客の応援の声と拍手に誰の胸にも涙と感動に包まれ総立ちになって清らかな思いに満ち溢れた。

 エンゼル保育園に障碍児保育を受け入れていることに違和感を持ち排斥しようとした保護者の感覚を根こそぎ変えたことを忘れられない。K君の力は、当時、存命であった理事長・園長であった吉田弘美と主任保育士吉田公恵の宝ものである。
翌日、保護者の意識は、障碍を持つK君の勇気ある健闘に対する話題に明るく弾み、エンゼル保育園は障碍児保育に優しいと嬉しい評価を頂くようになった。

 卒園時、K君の母親は卒園記念として籐で編みこまれた背の高い仔馬を残してくださったのだが、現在も3階のホール前の扉の前に立ち、エンゼル保育園の子ども達を見守ってくれている。

桂浩子 先生とT君親子

 私の保育理念の根本は桂浩子先生の出会いによりT君親子との出会いをもたらされて成長したのだと年齢をかさねるほど強く迫って来る。
エンゼル保育園に勤務していた頃、その日は大阪府保育協議会の研修講師の指名を受けて講義に出かけて終了後、帰宅時、近鉄電車の中に中学生らしく背丈の伸びたT君親子が並んで座っていた。「吉田先生!」と叫びながら子どもの時と変わらぬ親しみと懐かしさを涙と共に興奮を爆発させて駆け寄り私を抱きしめた。悲鳴に似た大声は、車内乗客の耳目を集めた。

 桂浩子先生が、長いコートを着た姿でT君親子を伴って来られたのは初冬の日だった。
畳敷きの部屋に通すと桂浩子先生は、畳の部屋にべたりと座り俯きがちで畳のヘリに指を立ててむしる姿に「あんたにこんな難しいケースをお願いしてごめんね」と恥ずかしさを隠すようにうつむいている姿が、払には年上の彼女が愛おしく、時々視線を向けた。
桂浩子先生は含羞を知る数少ない人である。
どこで見かけたのか忘れたが、背が高く細身のすらりとした体に黒のセーター、白っぽいTight skirtを穿き耳には大きなシャネルのイヤリングを着けている姿を斜め横からすれちがった時、なんと素敵な人だろうとうっとりした記憶がある。

 公務員の女性は、相対的にお洒落に無頓着で地味な人が多いように思うが、桂浩子先生は地味派手?シック? 私の憧れは増した。

 T君親子とエンゼル保育園の生活が始まった。T君親子は遅刻もせず決まった時間に連れだって保育園に通い始め、母親は職員室に出勤し、子どもは保育室に向かう。
母親と私は隣合わせに座り細かな仕事を静かな微笑を浮かべ母親は手伝ってくれる。
桂先生からは鋏、刃物は決して持たせてはいけないという指示を出されていた。
定刻になると母親と子どもは静かに家に向かう姿を見送り緊張の一日は終わりを告げる。

 暑い夏になった。

 私は、市役所に用があり向転車を走らせていると前方から桂浩子先生が自転車で走ってきた。お互いの出会いがしらは、東大阪の35号線の道路の真ん中にどんとコンクリートで固まられて車だけが通る坂道があった時代である。
坂道の横に自転車を寄せて向かい合い、取り留めのない話をかわした。私は日常保育のエプロンをつけたまま仕事をしている姿で自転車に乗り、走ってきたのだが、桂浩子先生は白のブラウスに黒の長めのskirtだった。印象に残る話はないのだが、太陽のギラギラと照りつける下で、30分以ト立ち話をした記憶が残っている。

 京大出身臨床心理士広田先生は、人の観察に厳しい人だが、桂先生だけは、「あの人は良い」と評価を一度も変えたことがない。

 大阪府虐待連絡協議会より虐待問題の啓蒙を促す、映像を作成するという知らせを桂浩子先生から持って来られ「この計画が出て来た時、あんたしか思い浮かばなかったわ」
そしてこの短編の表紙には都野智文保育士(在籍12年間の男性保育士)が(現在は愛知県で保育園の園長をされています)空に飛び上がるポーズをカッコよく撮られている。
私の保育園で保育士として勤務した三名の内、二名は他園で園長になりー名は主任保育士として抜擢されている。

 寝屋川市民営化保育園を受託した時、快く苦情第三者委員をひき受けてくださった桂浩子先生は、不安がっている保護者に対し、私という人間の仕事ぶりをきちんと説明してくださった記憶がある。
しかし、病に侵されている状態を私に一言も漏らさず、一年後、私の保育理論の具体性を表現した新園舎を見ていただくことも叶わず静かに世を去った。
先生の葬式に弔問に来られた女性たちの数の多さに圧倒された私は、子どもたちの虐待問題に対し、専門職として人間の懐の深さ、熱さに深く向き合い戦って来られた歳月を私は改めて思い知らされ彼女と出会えた幸せを思う。

 T君親子は、降車した駅のホームに立ち見送る私に電車の中から半身をのりだし「吉田先生」と叫びながら遠ざかっていく姿に危険を感じながらも二人の姿は、桂先生と共に保育の在り方を考える基礎が、今も私の心に奥深く記憶されている。

桂先生の逝去後、追悼書が発行されて私は2冊購入したが、2冊とも後輩に持って行かれたまま手元に今も戻っていない。後輩たちが、その2冊を虐待問題のバイブルとして今も大切に参考にして繋がれていればいいなと願っている。

ぼくのゆめ・わたしのゆめ

僕の夢、私の夢保育園の卒園記念絵画 (あなたは大きくなったら何になりたいの?)

 私は、子どもたちの卒園記念に、一枚の絵を描かせようと思ったのは、保育園で過ごした思い出の為ではあるけれど、子どもたちの絵を通して将来、何になりたいのか、手掛かりになるものを保護者に記憶してもらえたらと願い、子どもたちに絵で表現してもらいました。

 保育園で生活する子どもたちは、保育のカリキュラムにそって経験をしてきたなかで、楽しかったこと、面白かったこと。したくないことや嫌いだったこともあるかもしれないけれど好きだったことは、どこかに残っているかもしれない。

 興味深かったのは、女児は保育士さんになりたいというイメージが、圧倒的に多かったのは、やはり日常の生活の中で保育士たちのイメージが、強くあるのは嬉しい事であった。
ところが、年月がたつにつれて女児たちのイメージは変わりつつある。

 保育士さんのイメージが薄くなり、「お花屋さんをしたい」「ケーキ屋さんをしたい」と生活に密着したイメージが増えて来ました。「洋服屋さん」もありましたね。
一枚の絵が目に留まりました。画用紙いっぱいに描かれてあったのは、赤ちゃんを腕の先に抱いた女の人の絵です。その絵を描いてくれた子どもは、体が大きくて、大人っぽい? 子どもです。彼女は、「大人になったら助産師さんになって、赤ちゃんを産ませてあげたいの」って言ったので驚きと尊敬の目で私は思わず目を丸くしました。助産師さんという言葉もお話しできるので驚きました。
どうもお母様が、助産師さんのお仕事をされているようですね。

 子どものイメージって、私たち大人が考えている以上に生活の中でずいぶん拡がりを持っているのだなと改めて考えさせられました。

 さて男の子はどうでしょう。保育土さんになりたいというご希望はありませんでした。
当園では男性保育土さんを積極的に雇用していた割には、まだまだ保育士さんのイメージは女性の姿だったのでしょうか。

 現代の、男女雇用は、子育ても男女共にという基本的な考え方には子どもたちにはまだまだ遠いのかな。男児の夢では圧倒的に多かったのは、消防士さんです。
一年に一度、消防土さんの訪問で子ども達はとても楽しみにしていました。子ども達にとっては消防土さんの姿はとってもカッコいい職業の一つのようですね。
宇宙飛行士さんのイメージはどこからでてきたのでしょう。
制服を着ているお巡りさんのイメージはパトカーとセットになっているようです。

 ところで、男児はお医者様のイメージも出てきました。保育士さんの話では、歯医者さんに診察を受けた経験からイメージが湧いたようです。きっと痛くないように上手にしてくださったお医者様のイメージが残り、憧れが生まれたのでしょうか。

 子どもの頃から将来の自分のなりたい職業のイメージトレーニングをさせることは大切ではないかと思い到りました。この文章を書きながら私は、corona禍の中で保育の在り方を疎かにしていたのではないかと反省し、保育士さんのイメージをより高めなければ、保育士さんの数を確保できなくなるのではと不安になりました。

 ところが、年数が、経つにつれて男児は、お医者さんの希望が増えてきました。
絵の中に歯医者さんのイメージがきちんと描かれてあるのには、感心しました。
私は、母親気分? 祖母気分? で、お医者さんになってくれたらカッコいいな、生活には心配ないだろうと思ってしまいます。卒園児の二人からお医者さんになりたいという子どもがいたので、私は、帰宅途中で会った母親に言っちゃいました「お母さん! ○○君はね大きくなったらお医者さんになるって絵にかいてくれたのよ。応援してあげてね」母親もニコニコして喜んでくれました。その絵をお部屋に飾ってイメージを付けていってねと余計なことまで言っちゃったのは私の中で医者の職業を尊敬もあるけれどエリート意識が何処かにあるのでしょうね。

8月

 Corona禍がまた頭をもたげてきた中に若い26歳のお医者様が疲れ切って自殺をしたというニュースが流れてきました。
保育、教育、高齢者問題の最前線にたっていなければならない私は、corona禍の中で保育の在り方、人間の在り方を考察し、提言すべきことを私的なことに振り回され指の隙聞からボロポロ振り落としてしまった。Corona禍は私の健康は防御できたけれど、自分が守らなければならない子どもたちの在り方を多方面にわたる角度から考察する視点を見失ってしまったのではないかとこれから見直していきたいと反省しております。

どのような全体図にするか。考えてみました。

  1. 先ず子どもの希望の職業別を把握して■、●等の図面に入れてみる。
  2. 職業別に分けたら絵をいれてグループごとの子どもの名前をいれる。

その隙聞に私の文章をいれてみる。かなりの数になりますので小さくするけれども大きくにもなるやり方はありますね。

五島整形外科クリニック

五島院長先生

 14日の診察には院長先生を始め職員の皆様には、大変お世話になり心よりお礼申しあげます。
昨夜は、2時間以上を電車に座りつづけたせいで、立ち上がる時の痛みで大変苦労致しました。就寝前、調整された薬をのみ、シップも貼りおかげでしょうか、翌朝、ベッドから降りる時ほとんど痛みがなく驚きました。
 医学の恩恵はもとより院長先生の適切な治療に対し、心より感謝申し上げます。
職員の皆様に手を取り看護、介護に力を貸してくださった暖かさに現代における、日本社会に大変な労働を寄与されているのだと改めて認識と感謝を申しあげます。
有難うございました。

 私が、プログで発表いたしました、『愛の歌』についてお話させてください。
『愛の歌』は、チェロ奏者Hauser Cello Stjepanさんと出会ったのは、勤務する保育園の主任保育士のパートナーからHauserさんのファイルをもらいコメントをかくようになった事が始まりです。しかし、残念ながらHauserさんとは現実的には一度も、お目にかかったことはございません。
 テキストメッセージはご自分の過去の女性達へのラブレターを基本にして書かれたものですが、音楽の歌詞をご自分で書かれるので女性への愛情表現力はとても優れていらっしゃいます。
 女性達ファンを自分へのラブレターのごとく思わせる文章カはたいしたものです。
その文章力で大勢のファンを掴み4団体のチャットをできるように編成されています。
どうぞ、皆さん応援してあげてください。

 Corona禍のなか4年弱を私は、誹謗中傷を受けて精神的に弱りました。
私は、精神的に耐えられず、精神科に受診いたしました。誰にも言わず、付き添いもなく、孤独感は昔から私の習性は耐える力を持っています。今回は、薬を調整されましたが、一、二度飲んだくらいです。
 私を助けてくれたのは、Hauser Cello Stjepanの音色です。聴くたびに私は、癒されました。それが、私を立ち直された大きな要因であることは間違いありません。
 優れた音楽は、薬以上の効果があることに気づかされました。
最近では音楽の効用を精神科でも注目されています。最近の受診で以前は、月一回でしたがこれからはふた月に一回でいいと言われました。『しんどいときは、何時来てもいいよ、昼まではこの部屋に僕がいるからね』と言って頂きました。
 『音楽で君を立ち直らせた音楽家はだれですか』と聞かれ私は、躊躇なくHauser Cello Stjepanと答えました。

皆様、ありがとうございました。

2023年9月15日吉田公恵

「雑貨と喫茶マチカド」AM7時~PM4時まで喫茶。~雑貨は有り。

 私の住み始めた街は、corona禍のなか、まちなかを二車線に割られている。
車の行き交いは激しく、両脇の店舗はかなり廃れているも他市と変わらぬモーニングを提供する店舗がポツリ、ポツリあるのです。
 中でも目に付いたのは、事務用品を販売する大きな「チカザワジム」の看板を揚げられた事務用品販売一階の角に《雑貨と喫茶マチカド》の看板がある。
日、月曜日はお休みのPEERに代わりモーニングを頂くために《マチカド》に入ってみた。
 モーニングの皿はシンプルなアルミの皿で仕切られており厚手のパンはチーズたっぷり。
手前に置かれてゆで卵、レタスの上にポテトサラダ、ヨーグルトにジャム付き、パンのトッピング、飲み物、合わせて500円。
 昼食メニューにはちみつバナナトーストはパナナを薄くきり、可愛らしく並びはちみつをかけられてナッツを散らされている。450円。サラダスープセットは350円。

お知らせ

どんぐりスパ「伊勢スパ」
 伊勢市で2021年6月まで45年間!日業されていた老舗「喫茶どんぐり」さんの伊勢うどんのたれで味付けしたオリジナルスパゲッテイを(マチカド)仕様で提供されています。
 店主の方はお若く細面の綺麗な方で、すべての料理は彼女の独創性で様々なオーダーを丁寧にさばかれています。お母様もとてもお綺麗な方でした。
 それになんと店内は種々雑多な雑貨も所狭し(一見の価値あり)と並び、雑貨好きの私は胸はときめく。中でも気に入ったのは前の部分にスマホをいれてパチンと締められるスマホショルダー。金銭も入るチャックもついてまるで革製品のように丈夫で肩から斜めがけができる。
 お洒落で黄緑のバッグ2,718円。デザイン違いの黒のバッグ2,178円。現在、スマホ2台を使用しているので布製のベンケース1,600円で購入し、ペン3本、薄い手帳も入り、スマホ2台、片方筒にすっぽり。
 彼女の独創性に挑む姿は清々しい。手作りアクセサリーも自分の手指から打ち出している。
 物価高の今、安く納得のいく買物をできた満足感で楽しい一日でした。

Hauser cello chyの手製アルバム

 気持ちが滅入ってどうしょうもない日だった。スマホからチエロのメロデイーが流れて来た。男性の弾くチエロの音色が、目を閉じた私の全身を静かに満たしてくれる。

 今まで、チエロの音色をこんなに愛おしく感じたことはなかった。その日からだろうか。私は、毎日のように、時間があれば聴くようになった。その回数は瞬く間に広がり、どのようにして感じ取ってくれたのかはわからないが、私の職場で共に共有する時間の長かった主任保育士のPパートナー(アイリス眼鏡に勤務する)は、HauserさんのチエロをまとめてスマホのFacebookにプレゼントしてくれた。おそらく彼女は、私のしんどさを察知し、彼に話したのではと推測したのだが...私はご夫婦の長い道のりを見てきた。彼女は保育内容を常に点検し、若い職員の指導をたゆまずしてくれた。時には、私の保育内容に疑問を持つこともあったかと思うが、自分の子ども男児二人をエンゼル保育園に入所させて他園で働き、私が、現役でいる時にエンゼル保育園に就労してくれた。

 私が、何故彼女を信頼してきたのか。彼女は。パートナーとどのように何処で出会ったのか聞いてはいないが、出会った時から二人は変わらぬ愛情を持ち続けている誠実さを持続しているからである。

 それは、彼女の揺るぎのない言葉「私は、今も彼が大好きです」という言葉にある。

 長男は大学を卒業後、税務署に配置されて誠実に仕事をし、現在は、一人暮らしを始め、弁当も自分で作り職場に持参しているという。次男も今年卒業し、医療関係に進むと聞く。

 エンゼル保育園の「体育遊びを楽しむ日」私の成人した息子の分と共に自分の家族のお弁当を作ってくれたのだが、驚くような立派な弁当で残念ながら江東会の最初に作ったホームページは残されていないためにお弁当を見せられない。

 彼女は大阪府保育協議会の職員リラックス旅行に出席させたとき、コアラバッグをお土産にプレゼントしてくれた思い出は今もバッグと共に私の胸に残っている。

2023年7月1日 吉田公恵

二枚の卒園写真 子どもたちと共に

 寝屋川市あやめ保育園にて10年間保育園生活を送った私は子どもたちと、撮った二枚の卒園記念写真がある。

 1990年9月江東会理事長、エンゼル保育園園長就任。
寝屋川市の保育園生活の始まりは、寝屋川市公立保育園民営化計画を、地元の信頼の厚い民間法人が、受諾したが、残念ながら法人の描く施設建築を諦め、再度、振り出しに戻った募集に対して、私に、受けてみてはどうかと声をかけてくれた知人がいた。当時、募集人員に対し、18件応募し、寝屋川市の主査、園長先生を中心に各保育園に見学に来られた。

 その中で社会福祉法人江東会が、選出されたのである。私は、主査M氏に伺った言葉は、見学した中で「保育園は小さいけれど、温かさを感じられた」という言葉であった。その言葉は、自信と励みになった。

 私が、馴染みのない寝屋川市の民営化保育園を引き受けようと決心したのは、東大阪市エンゼル保育園は三階建てで敷地も狭く園庭のない条件下で、私を始め保育士たちは毎日のように子どもたちと《公園ジプシー》をしてきたので子どもたちに広いところで思いっきり遊ばせてあげたいという思いが強かったのである。

 700坪の土地を寝屋川市は無償で、あやめ保育園の園庭として借用できる約束である。私は、この広い土地にどのような園舎を建て、遊具を購入すべきかと胸を弾ませた。
まず園舎の設計をどこに頼むべきか。当時、エンゼル保育園少子化対策補助金により子どもの急激な増加により定員数120名に変更。隣地が空いたので新たに土地購入計画を立てて園舎も建て替え時期と重なり、私は、大忙しであった。

 大阪国際大学短期学部の非常勤講師(乳児保育)を後期だけで終わることになったのは、残念であったが、仕方のない状況であった。しかし、後期だけでも学生たちに好評で終われたのは、現役の幼稚園教師の保護者を学生たちに経験談を、紹介したことである。

 私には、その後の職員確保にメリットがあったことを実感する結果を得た。私を大阪国際大学非常勤講師に推薦してくださったのは、東大阪市前白鳩保育園理事長・園長の栗本広美先生である。

 今も私は、栗本広美先生への感謝の念を忘れたことはない。
私が、デザインを勉強してきた道のりで出会った先輩の話の中で、神戸に武田設計事務所の先生は大学の教授でもあるが、非常にユニークなデザインをされる方だと聞いたことを思い出し、武田設計事務所に設計、建築は多田建設にお願いすることになった。
エンゼル保育園は、東大阪市白鳩保育園の建て替え時、デザインされたベース新川、昇設計事務所を栗本広美先生に紹介された。

 小柄だけどスポーティなヒロミ先生は、お顔の愛らしさは子どものように素敵な方です。
ご自身の保育園への取り組みはそのスピードたるや並はずれていた。ご自身の園舎の建て替えは当時、現代的でお酒落な新しい取り組みと保育と高齢者とのコラボを先駆けた内容でお手本になりました。東大阪市民間保育協議会では女性では初めて会長に抜擢された方です。

 建築は2か所、同時に始まり、あやめ保育園は私の提案した屋根を赤色材質のものを見つけるには、多田建設の建築責任者は大変御苦労されました。赤色の屋根色を地域の住民の方から「朝から赤色の派手な色を見せられたら疲れる」苦情も聞きました。でも市役所の方のご尽力で我慢していただくことができました。この時の設計、建築は私の人生の中で最も忙しくもあり、充実した日々でもあった。

 二か所の建築を終え、落成した時の喜びは、子どもたち、保護者への贈り物として私は、幸せであった。あやめ保育園で、落成後、エンゼル保育園の子どもたちを広いあやめ保育園に招待した時、一人の男児は、園庭に立ち大人っぽい表情で「ここは公園です」と大興奮の声で叫んだ言葉が今も耳に残っている。エンゼル保育園の保護者は、エンゼル保育園の園庭に対して誰も不満を言う方は、いなかった。むしろ、(子どもたちを色々な公園に連れて行ってくれるからありがたいわ)と好意的であったことを今も忘れられない。

 あやめ保育園の子どもたちの卒園式は、何回目だろう。私は、卒園式の写真を二枚撮るように考えたのは、一枚目はお行儀よく撮る。もう一枚は、子どもたちも保育士も思いっきり楽しいポーズをしてくださいとお願いすると面白がってくれた。
この二枚を裏表に挟んだ写真を卒園記念写真とした。

 私の願いは、子どもたちの裏の写真を成長した時、保護者に見つけてほしいなと願うのは子どもたちの保育園時代、こんなに元気に自分を思いっきり出していた子どもの姿を知ってほしいと願うからです。

2023年6月8日 吉田公恵

Soraさんと猫さんの話

Soraさんと出会ったのは、Facebookに訪問してくださったのがきっかけである。Corona禍が緩やかになってきた環境の中で観光に行かれた文章はガイドさんのように的確だったので関心を持ったのだが、私も何度か行ったフランス、ベトナムの紀行文が非常に端正で興味のそそられる描写であった。

ところが、Soraさんの身上書には、職歴は平成18年6月30日よりとあるので再度、じっくり読みこんでみると過去にはテレビドラマ、映画の演出などのプロデュースをされてきたのではないかと思われる節がある。NHKの日曜美術館のことも書かれてあるので私の視野にはなかった物語があるのかと思い、より興味を掻き立てられた。

浜田正平 load bridge(Japan) Quality
     職歴 EXPRESSWAY (Japan)
     新しい仕事スタート2018年6月30日
     Quality Engineer(品質技師)
学歴 出身校 Brown University
学歴 出身校 Stanford University
連絡先 https://www.diwahouse.co.jp(大和ハウス工業オフイス)

Soraさんのエピソード

 去年、車で通勤途中に拾ったのですが、その日、車で道端に浮浪猫がいるのを見ました。周りにも誰もいません。奇妙な話です。猫は私が、駐車するのを見て、私に向かって登ってきました。私は、その足が、怪我をしたのをみて、ペット病院に連れて行きました。
治療した後、猫はずーっとついてきて、私は、猫を連れて帰って今まで暮らしています。

Yoshida

貴方の優しさに甘えられた幸運な猫さん!
正直に言っていいですか。 私は動物が苦手です。
子ども達の仕事を長くしてきた私ですが・・・
素敵なお部屋の猫さん!

Sora   

猫さんは、とても可愛らしく癒しをあたえてくれます。機会があれば、猫さんに触れあってみることで苦手意識が、和らぐかもしれません。

Yoshida  

うーん。難しいですね。
私は、本来、生き物に冷たいのではと思います。

Sora

大丈夫です。人によって趣味が違う。無理に自分を責める必要はない。楽しいことが、一番大切だ。

Yoshida  

ダメです。生き物を趣味にしては。

Sora    

仕事は、定年退職したのですか?

Yoshida  

私には、定年退職はありません。仕事が生きがいだった。最後の仕事として道筋を付けたかった。

Sora    

誰もが仕事をしなければならない。
仕事がないと空虚になる。

≪Soraさんの言葉≫

成功した男は必ず良い車と高価な腕時計を持っていなければならない。
腕時計は男の気質を表し車は男の地位を表している。

(いやな奴!でもカッコいいから許してやるぜ )

Soraさんの優しさに甘えられる幸運な猫さん!
猫さんも人間のように様々な顔立ちがあるのです。
Soraさんの飼い猫さんは、目はクルッと丸い。
でも体は、Soraさんと同じくデカイ。
まるで昔からのSoraさんの愛猫、住猫のように、エラそう。

60歳の誓い イヤリングの話

 大阪保育部会の海外研修に参加したのは、何時の頃だろう。
40代だったと思う、総勢何名だったかも記憶にないが、男女取り交ぜて20名かな?
Memberの中に80代の女性理事長先生がいらした。

 スケジュールは粛々とすすみイタリアに向かう前日の予定は、アウシュビッツ収容所。第二次世界大戦中、ユダヤ民族の虐殺。600万人がアウシュビッツ収容所へ貨車に詰め込まれ送られるという過去の悲惨な現実を私も折に触れて思い出すことがある。
「アンネの日記」を教えてくれたのは誰なのか覚えていないが、夢中になって繰り返し読んだ手記である。

 ニュースの映像で幾度か見たことのある背の高い黒く煤けた門を潜り抜けると祈りへの燭台がある。高齢の理事長先生は、誰よりも早く燭台の前に立ち目を閉じて両手を合わせて静かに合掌された。私は、その姿に深い感動を覚えた。
硬い石の壁に刻まれた文章は、虐殺されたユダヤ民族への贖罪だろうか。白の大きな花束も飾られてある。

 高校生の頃、「アンネの日記」を読みアメリカ映画も見た。隠れ家の天井裏のガラス窓から外を眺めると鳥たちの群れは自由に飛んでいく姿に呟いた言葉を鮮明に浮かぶ。
「鳥さえ自由にどこへでも飛んでいくのに人間である私たちはとじこめられたまま」
アンネ・フランクは天井裏の狭い場所に膝を抱えて座り、ガラス窓に向かい呟いた言葉を忘れることはない。(台詞通りかどうか記憶に乏しいが)

 しかし、私は理事長先生のように燭台に向かいすぐさま手をあわせる所作など思いつかなかった。

 ユダヤ民族について、忘れることのできない歴史が、そのまま生きていることだったのだと。長い間児童福祉事業をされてこられた理事長先生の思いの深さに改めて気づかされたのである。

 夜の食事会に理事長先生は、ロングドレスをお召しになってイヤリングを付けて来られた。「私はね、60歳になったら耳に穴を開けてイヤリングを付けることに決めたのよ。最後まで児童福祉事業をすると決心の誓いを忘れないためにイヤリングを60歳からつけるようになったの」と言われた言葉を私は心深く刻んだ。
60歳になると心身ともに年寄りだから仕事をできるか、不安だった時代である。

 「人生100年時代」と言われる現代は、理事長先生は先を見越して愛らしく知的に成長された後継者に託す準備を出来上がった安堵感からお孫さんとともに研修旅行をされたのだろう。現代の働く女性の問題を示唆される内容は2023年の現代の課題に繋がる問題の視点であったことを今にして思う。

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