私の障がい人生 その1

キム・ビョンス(韓国在住)

私の障がいが始まったのは3歳児からだと聞いています。

足の裏に傷がありましたが、母は私の3歳下の子の臨月(結局死産でした)からもう足の傷は大丈夫だろうと6歳上の長女に私を入浴させました。

ところがまだ完治していなかったその傷から当時流行していた結核菌が膝に浸透し結局関節炎を起こし、数回の手術を受けた結果、現在のように膝関節がほとんど曲ることができない障がいを残したままに至りました。

不幸中の幸いは当時の医療技術では結核性関節炎は菌に侵された部位から切り落すしか方法がなかったものを大阪市大の豊島先生に父親が掛け合ってかろうじて膝から下をおとさなくともよい状態で関節の屈伸には不自由が残るものの今の状態で保存していただきました。

さて、私が最後の膝の手術を受けたのが、確か小学2年の頃です。手術後、足の成長を生かすために金具でできたコルセットを左右に装着して通学せねばなりません。朝コルセットを装着してくれたのは長女の姉です。「なんでおれだけこんなんせなあかんのや!」と姉に泣きながら訴えました、すると姉は「なにゅうてんのん!あんた男がやろ!」とまだ年端もいかない弟にそういって叱りました。

もうすこし小学校時代の思い出を・・・
当時私は足が不自由なせいで家の近くの近大大学附属小学校にかよっていましたが、運動会の時担任の芝先生が私を負ぶって走ってくれた記憶は忘れることが出来ません。

それと当時、同級生だった武田君は私に野球を教えてくれました。

今里に住んでいた真鍋和子さんはこんな障がいをもった私をお誕生会の時、家に招待してくれました。

最後に障がいとは別な辛い記憶。小学3年の2学期いつもバスで登校する時一緒だったHさんがバス停で並んで、待っていると「吉田君てチョーセンやったん?」なんとも人を馬鹿にしたような口調に、私は返す言葉を失いました。私は3年の3学期から冬休みの友の宿題をせずに済むと言う自己弁護から姉たちが通う民族学級へ転向を決めました。民族差別的表現と真っ向から立ち向かう勇気がまだ私の中では持ちえませんでした。

民族学校に転校するやすぐ上の姉は私を放課後みんなと遊びに通ったローラースケート場に私を連れて行き、足が悪くてもこれぐらいはしなさいとローラースケートを覚えさせました。私はこれが乗じてアイススケートにどっぷり猷まり、5~6年生の頃には学校をさぼって難波のアイススケート場に足しげく通ったものです。そんな私を見かねて長女の姉が私を長野県のアイススケートのメッカである白樺湖に連れて行きました。

ちょうどオリンピック選手たちが凍ってベストコンディションの湖畔の上で今迄見たこともないスピーで走っているのを目の当たりに、私もなんとか彼らに追いついて走ろうと滑っていると選手の一人が私のところに来て、もっと左足を曲げたらスピードがでるよとアドバイスしてくれました。私はそれからアイススケートを止めました。(つづく)

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