二人は仲良しきょうだい!

 今日は、近鉄百貨店のレストランで家族のお食事会!おばあちゃまもご一緒です。
ところが、ぼくは、食事を済ませたのでちょっとたいくつしのぎにレストランから出て姉の車いすにのっかってみたくなりました。車いすの二人乗りは、いけないって叱られそうだけど、僕は、一度、二人乗りをしてみたいと思っていたのです。

 ところが、おばあちゃんが、出てきたのは僕がいたずらをしないか心配だったようです。
ぼくが、既に姉の横に二人乗りをしている様子をみておばあちゃんはにっこり笑いだし、手に持っていたスマホで僕たちを写してしまったのです。
「二人が、とっても可愛すぎたから写してしまったわ。」
ママが、みたら怒られそうで心配だった幼いふたりでした。今は、そんなことはできない小学生と中学校生になりました。

 祖母である私が、残しておいた写真を素描にして絵画入れの中に隠していたのは、車いすで悪戯している様子を世の中に出すことに躊躇があったからです。
今回、思い切って孫たちの悪戯を絵画にしようと決心したのは、私の友人だと信じていた人が、障がいをもたざるを得ない人々の状況に対し、不適切な言葉を叩き込み私は、悔しさを我慢できなかったのです。障がいを受け持つ不便さをもたざるを得ない子ども達、若者たち、大人たちに対し、敬意をもって接してと欲しいと願う気持ちをどうしても抑えきれませんでした。

 多くの人々に指導されていらっしゃる西原なおみ先生にお願して最近、私は忙しさの中で絵筆を止めていましたので、作品を新たに描くにあたってどのような①色彩にすべきか、②筆のタッチを如何にすべきか、西原なおみ先生に細やかなご指導をお願いしました。とても明るいタッチで描くことが出来ました。
この場をお借りして心よりお礼申し上げます。※先生に書いてもらったのではないか?疑心暗鬼で言われちゃうかな…と心配しつつ…

 絵とはなにか、今は亡き坂崎乙郎(美術評論家)先生に教わったと思います。
脳の働き、指の動きの良い時、悪い時もあるけれど、

 現在、韓国にて音楽学院を創設して若者を指導している弟の障がいについて申し上げておきます。日本で生まれ育った弟の足について障がい者として彼女は唇をにたりとゆがめ侮蔑の言葉を吐きました。吉田家の家族は、日本の終戦直後、東大阪市若江東町の駅に近い天理教の敷地の奥深い場所にある三階建ての洋館を借りて住みました。100人は生活のできる立派な洋館の造りでした。母吉田弘美はエンゼル保育園の創始者です。私の母方の祖父は、日本の終戦前後以前から京都の西陣織を学び莫大な資産をつくり、大阪市の商店街に店舗を持ち工場には数十名の職人がいたと聞いております。祖父は、借り入れた天理教の三階建てに、吉田長太郎に吉田弘美を嫁がせ、韓国へ帰国する前に若江岩田の国道25号線に3000坪の土地を購入し、父の鉄工所と事務所を建て200名の朝鮮人と日本人を雇用しておりました。

 祖父は、韓国全羅南道康津郡の山身者で、穀物が肥沃な士地でしたが、米は住民の朝鮮人には食わされずすべてが、天皇様に送られるという理不尽さにいつもお腹を空かしている人々に対し日本の植民地施策に腹を立てていたと父が、話していました。

弟吉田泰久の障がいについて。

 天理教の洋館の三階建てに住んだ私たちは、終戦直後であり、進駐軍が朝鮮人を集めて会議をする為に一階の応接間を使いました。その日は、父はパリッとした背広にネクタイを締め、母は鮮やかな朝鮮服を着て参列する姿に幼い私は、胸がどきどきした覚えがあります。
広い庭園にはタイル張りの広い浴槽があり、広い庭に立ちぐるりをガラスに囲まれた浴槽から妹とふたり庭の葉陰から射す木の葉を眺めていました。毎日様々な人々が、お風呂にはいりました、終戦前後です、日本は結核菌が蔓延しており、私は、結核にかかり結核菌が、弟の足に影響を与えたのです。当時、天王寺の市立桃山病院に有名で立派なお医者様がおり、父は大きな声で泣きながら弟の足の手術をお願いしていたことを覚えています。結核の直りの遅かった私は、公立小学校に入学し、妹と弟は、八戸ノ里にちかい近畿大学付属小学校にオシャレな私学の制服を着て通学していました。先生に手術をしていただいたことが功を奏し、足を膝から切断せずに済みましたが、折り曲げられないけれど片足をなくさずに済んだのです。

 祖父母は、一般の船をチャーターして物資を山と積み荒れ狂う玄界灘を越えて祖国、朝鮮に帰国しました。

 弟は、高校時代はプラスパンド部に所属してテナーサックスを毎日のように吹いていたように記憶します。高校を卒業後、銀行に一年間勤め東京の和光大学文学部を4年間、東京のホテルボーイとして片足を引きずりながらレストランの給仕をしておりました、大学生活の資金稼ぎのために4年間頑張りました。

 その後、文学部卒業後、作家でもあった西部百貨店のオーナーの目に留まり西武百貨店にて韓国雑貨や韓国料理を出すようになり破格の値段で百貨店のスペースを貸してくださった。作家であり実業家でオーナーである異色の経営者であった堤清二様の暖かい配慮のもと弟は、事業を始めたのです。

 私にも温かいご配慮を頂き、韓国の画家を西部百貸店のギャラリーを提供されて展覧会を紹介させていただいたことも大切な思い出の数々です。
しかし、私の友人は、その後も家族の孫娘の障がいについて唇をゆがめ持ち出しました。孫娘の下半身麻痺について息子と嫁には何も聞いておりませんが、家族は孫娘を大切に知能には問題は有りませんので楽しく過ごさせております。障がいを持つ人々のしんどさを理解し、明るさを保持できるように優しい心づかいで障がいを持たざるを得ない人々への手助けを少しでも分かちあえるように心から願っております。

吉田公恵

error: Content is protected !!