戦争は 平和は誰のためにあるのでしょうか?

東大阪市近鉄沿線瓢箪山、瓢箪山駅を降りて東西南北に様々な店舗が並び私が住みなれた愛しい商店街の中に並ぶ小さな洋服店があります。洋服好きで難波デザイナー学院を卒業後、浪速短期大学学長文学博士深田尚彦(11002卒業)卒業証書も頂いております、勿論受験して入学いたしました、(浪速短期大学は後に大阪芸術大字の名称に変更されています)私が、洋服好きなのは生まれ育った影響だと思いますが、母は裕福な家に生まれお洒落好きで特に祝事葬祭事には洋服へのこだわりが強くそのたびにデザイン、マテリアルに拘りました。

中学3年生の頃でしょうか。お正月の準備に忙しかった母が、私に上本町にある近鉄百貨店上六にお金を持たせてお正月に着用する洋服を選んで、買って来なさいと言った事があります。かなりの金額だったと思いますが、私は、心躍らせながら洋服を買いに行きました。

買ってきた洋服は、茶系の色合いに金色の糸が混じったスカート丈の長いフレアースカートのワンピースでした。母が気に入るか心配でしたが、外国のお姫織の様な雰囲気のある洋服を母は、とても喜んでくれました。母はきっとその洋服を自分も着てみたい思いがあったのでしょうか。その時のニコニコ顔を今でもふと浮かびます。

ところが、私の洋服好きは保育園理事長・園長時代には、無理になりました。私の職責が私への疑問を増幅されたのは、マンション住いの私へのバッシングが広がり始めたのです。

金持ちで洋服を多く持っていると言うことが、マンション内で広がり贅沢をしているとことを保育園経営に相応しくないと言う非難の的になりました。それは職場の一人が耐えがたい誹訪中傷を広がらせ私はマンションを出て三重県にマンションを借りざるを得なくなりました。銀行関係の女性が言ってくれたのは(園長先生だから外出が多くて他の園長先生方と会議とのお付き合いがあるから、洋服に気を配るのは当たり前です)と言ってくださった言葉は今でも心が和みます。

しかし、私は職業的にこういう事でも非難の的になるのだなと自戒致しました。其れからでしょうか、洋服を見ても手に入れようと思わなくなったのですが、現実的にはお金に余俗がないのも事実です。洋服を買わなくなって15年くらいかな、若い時から持っている洋服で今は間に合うようになったのです。

何故なら二つの住いの負担が大きくなりました。そこには、統一教会の勧誘が、私の三重県のマンションにもあらわれ始め、それは東大阪に帰りはじめてもなお一度は生駒のヘアサロンの帰りに女性が付きまとい始め、統一教会への勧誘はマンション内の住民の一人も統一教会員と思われる女性が、買い物の行き帰りにも待ち伏せのように始めたことに気づきました。一度は、電車の待っているところに背の高い黄色のジャンパーを着ている男性を私の近くに寄せ顔を確かめさせられていることもありました。

洋服に関心がなくなってずいぶん長くなりましたが、それは私の感性に比合う洋服に出会わなくなったのも大きいですね。
だのに一週間前です。瓢箪山の通りの小さな洋服店前に10着ほどのセーターがつるされていたのです。私の眼に深い緑色のセーターに左右の袖にレースで縁取りされた体にぴったり添うようなとてもエレガントなセーターのお値段はなんと2000円です
私は、最近、洋服を購入したことはないのに足が立ち止まりました。

今は2000円ぐらいでも買っても誰にも何も言われることはないだろうと思いながらでも一瞬ためらったのは何故でしょう。

明日まだ残っていたら明日決めようって思ったのです。そして次の日に行きました。まだ残っていたのです。胸がはずみました。私は、本当にこのセーターを気に入ったのです。

何故こんなに素敵なセーターを2000円でも買えない人が、いるのかなって考えた時、私は、日本の生活状態が、高市首相の中国に対する言動が、日本国民の生活を脅かしている現代在状況を改めて思い浮かびあがったのです。勿論、2000円ぐらい何ともない人はいるでしょう。値段が安いからってデザインを気に入る方はいないと思いますが、とても気に入りました。

私は、こんなにも深い色の緑を見たことがありません。絵画を親しんできた私はこのように深く美しい緑の染色をできるなんて中国ってすごいなって考えてしまいました。

私たちは隣国である朝鮮、韓国、日本、中国、台湾、風景、習慣、農耕民族でもあり人々の容貌は西洋人とは全くちがう、似通ったものが、多い。互いに理解しやすいものは多いはずなのに何故こんなにも距離の近い隣国同士が、争う必要があるのでしょう。戦争の経験を持ち今なお差別と人権意識の欠如にて辛い思いを断ち切れないのか私は辛い感覚を抜きれないのはなぜでしょう。

現在の日本国民は毎日の食べる事さえ厳しい毎日です。政治家はわかっていらっしゃいますか。あなた方は生活費に困らないから国民の毎日が見えないのではありませんか?国民の生活実態を知るために各々の家庭生活実態を理解するべきだと私は強く思います。

中国の経済封鎖の種類が増え始め自転車操業で店を維持している厳しい現実は瓢箪山の商店街も活気がなく店を閉めて撤退している店舗が増えています。

日本国民は心優しくおとなしいから国を自分たちが、我慢して支えるのだと、耐えればいいのだと思っているのでしょうか。

私の大好きな食堂、レストラン日時の出店、時短の工夫にて縮小して工夫されざるをえない厳しい経営が続いています。愛しい瓢箪山の商店街も活気がなく店じまいが増えています。
この状態は日本の街に増加しているのでしょうか?

三日ほど前に電車の飛び込み自殺報道が他の沿線であり瓢箪山の電車到着が遅れると瓢箪山駅のプラットホームに流れました。

胸が痛みます。

可愛い子どもと家族の暖かい愛

昼食を取れなかった私は、食材の買い置きがない事に気づき生駒の近鉄百貨店へ電車で向かった。食材と日常雑貨の買い物をすべく百貨店に入ったが日曜日のせいか家族連れが多く振るわっていた。

一階の食用品売り場に、お気に入りの小さなサツマイモを散りばめた食パンを切らしていたので、売れてしまっていたら困るなと思いつつ買うことが出来たので遅めの昼食を取ろうと思い、三階の喫茶ルームに向かった。昼食時だが、人影は少なく窓ガラスの大きくはめられている窓際の席に腰を下ろした。3歳児と5歳児ぐらいだろうか、子ども二人に若い夫婦が後ろ姿をみせて座っていた。

ウエイトレスさんにサンドウイッチを注文すると、前席に座っているワンピースを着た可愛らしい女の子、女の子の頭越しに男の子もお顔を見せてくれはじめました。
二人ともなにか言葉を交わしているようですが、言葉は聞こえません。私は子どもたち様子が気になり、思い切って先に買い求めたサツマイモデニッシュブレッド三枚入りを手に持ち女の子の処に伺いました。
「お母様、お子さんが、私を気になるようですね。私は長らく保育園の園長をさせていただいてきたのです。今年の3月末で終わりましたが子どもさんには、何か感じることがあるのかな? このパンは私が大好きなのでお嬢さんにあげたくて持ってきました。お兄ちゃんと分けてくださいね、私をみつけてくださったお礼です」

背の高い父親と母親の優しく綺麗な印象に残る素敵な若いご夫婦はとても恐縮されていますが、私お兄ちゃんの姿に感心しました。とてもお行儀がよくて落ち着いています。家族の穏やかで柔らかな雰囲気が日々の生活の過ぎ越しが偲ばれます。私は自分の席に戻り間もなくお父様が「落ちついてお食事をしていただけるようにそろそろ帰ります」
お気遣いの言葉に、青年の父親として家族の中心をしっかりなされているように感じられて胸がきゅっと締め付けられました。私は、思わず男の子に言いました「おとなになったら立派な人になってくださいね」「はいっ!」って元気よく私の眼を真っすぐに見て言ってくれました。背の高いお父様に抱かれた女の子も何度も振り返り私をジーっと見つめてくれました。

静かな優しいご挨拶をしてお別れをしましたが、私の長い社会福祉事業の終わりが来たのだと漸く自覚が私の心身から納得できたのだと。漸く私の心身から納得できたのは、出会った家族の暖かな愛に包まれたからでしょうか。

でも、この日は最後まで私は幸せな時と言葉を頂いたのです。
帰宅するために生駒駅の改札口を抜けて2階のエレベーターの前にたつと一人の女性が乗り込み三台のベビーカーが並びます。ところが、もう一台父親が押してきました。急いでいるようなので私は、遠慮してもう一台の計4台のベビーカーをエレベーターに乗せました。最後の父親は、丁寧なお礼を言ってエレベーターに乗り込みました。
その時、私に一人の女性が私に「優しい人ですね!優しいオーラいっぱい!」と大声で叫ばれたのです。

最後のエレベーターに私と外国人の子どもを抱っこされた家族と最後に来られて乗られた方ですが、エレベーターが静かに止まりました静かに扉のスイッチを押してくださったのは最後の女性です。皆が下りるのを静かに待っていてくださったのです。
私はお礼を言いたかったのですが、彼女の後姿は遠くになりました。

この日の美しい経験は私には宝物になり忘れられない思い出になりました。

※S子様へ、この日の優しい出来事を書かせていただきました。皆さんに知って頂きたく書きましたが、恐らくあなたはまた吐き捨てるようにナセバーナル社にかかせて夢の祭り社(吉田公恵所有)に投稿しているのだと言うのでしょうか。
絵画と写真撮影と選択、文書は私の経験から書いており全てオリジナルの自筆です。それをナセバーナル社に送り校正のうえ「夢の祭り社」に投稿していただいております。

私の障がい人生 その4

キム・ビョンス(韓国在住)

 さて里心がついて高校2年生で大阪に戻った私はやはり学校でブラスバンド部に入部、テナーサックス担当で旧友達とまた吹奏楽演奏に精を出すことになります。

夏休みに入ると秋のコンクールに備えてクラブでは合宿をして練習をします。
個人練習をしている最中に耳から空気が漏れる音と言いますか、ジーッという雑音が聞こえてきて部長に事情を話してそれまでたまに持病の中耳炎を患っていたとき通っていた耳鼻科病院に駆け付けるとすぐ大学病院に行くことを勧められました。

足の手術でお世話になった大阪私立大学病院に診察を受けに行くとすぐ手術した方がいいということで急遽入院手術となりました。

高校1年の時友人と夏に海水浴を楽しんだとき耳に入った水を放置して中耳炎を起こしていたのを病院に行ったり行かなかったりしていたのが元で悪化していたようでした。

手術が終り部屋に戻って麻酔が覚めると無性に喉が乾く。付き添っていた母親に給水器で水を飲ませてもらうのだがどうも片方の口から水が漏れる。夜になると看護婦が私の右目に軟膏薬を目を見開いたまま塗りに来る。どうも顔面右半分が思い通りに動いていないようでおかしい。母にどうも顔半分がおかしいので手鏡で顔を見たいとせがむが母は見なくてよいと取り合ってくれない。

手術のあった明くる日、私が幼いころから非常に可愛がっていた小学生の姪が母親と病院に見舞いに来てくれました。姪は私を見るなり「お兄ちゃんじゃない」と怖がって近寄ろうとしません。私は無理やり母から手鏡をもぎ取り自分の顔を見ると、そこには唇は左側に片寄り目は瞬きもしないで見開いたままの無惨で奇妙な私の顔がありました。話しても左半分だけが動作し、右半分は何の動きも見せない顔面神経障がいを起こしている私の顔がありました。

怪人のような顔をしたお兄ちゃんに映ったので至極当然な反応だったのでしょう。

顔面神経障がいから生じる問題は私に深刻な精神的障がいをもたらすことになります。(つづく)

吉田公恵の本好きは何処から生まれたのか。

1945年1月1日の明け方、母弘美の体内から公恵は産声をあげた。傍で見守っていた父長太郎は、生まれて来た赤子を見てがっかりして自分の寝床にそそくさと行き布団をひっかぶったのは、正月の元旦に生まれる目出度い子どもだから助産師は生まれる子どもは男の子だろうと言っていたのだが、父の夢が破れてがっかりしたと母弘美はいくどか笑い話のように話している。

1945年8月6日、午前8時15分広島市上空六百地点で原爆が炸裂した。5千度の強烈な熱線と爆風は広島をのみこんだ。

《無謀な戦争を遂行させ原爆投下を招き寄せた日本の戦争指導者と平然と原爆を投下したアメリカは許せんと思った》

《人間とは愚かで、人種偏見、宗教、兵器を量産して儲ける死の商人共の策謀で、この地球上では絶えず、紛争が続き、戦争と核兵器使用の危機は果てしない》はだしのゲン作者中沢啓治

私の名付け親は京都の高名なお坊様だと聞かされている。一千円を謝礼として名前を付けてもらったのだと父と母はことあるごとに私に自慢するのである。

日本名吉田公恵、韓国名金恭鳳(キムコンボン) (お坊様がつけてくださった名前) (のちに金順任キンスンニムは韓国の親戚の子どもの順序で名づけられていたことが判明)

終戦直後の日本は結核菌が蔓延し、私は結核菌に侵されたために、幼稚園には行かれず、母親の買ってくれる絵本が唯一の友達であり、絵本の世界が、夢を育む心地よい私の空間であった。特に記憶するのは絵本の中に描かれた日本の農家のひさしにつるされた柿の色の鮮やかさ。今でも思い浮かぶ。

空の青さと地面の茶けた色が、80年も前の絵本であるが、田舎の農家の風景はごく普通のものであると思われるが、私は今も忘れられないのは、絵本には暖かさがあったのではないだろうか。父と母は仲の良い夫婦ではなかった。いずれ何時か、母吉田弘美が歩んだ厳しい生涯について書くつもりだ。子ども心にも家庭の冷たい空気が、絵本の日本的な日常の農家ひさしの軒につるされた柿は、暖かな雰岡気を子ども心に柔らかく響いたのだろう。私の童話と絵本、後に小説との出会いは日本のありふれた日本家屋の軒につるされた柿の赤い色が始まりであったが、私の成長の節目には必ず私の心を捉える憧憬と夢を広げ自分の世界観を作る源になる様々な本との出会いは、日本の穏やかな生活感の原風景とは切り離せない私の生い立ちの出発点であった。

小学校三年生頃には、“ジャンパルジャン” “巌窟王”に夢中になり胸をはずませ、“罪と罰”の重みのある話に私は、まだ理解するには難しかったが生きることの厳しさを多少なりとも感じることがあったのかもしれない。“小公子” “小公女”は幾度、読み返したことか、絵本だったり、童話であったり、漫画でもあったが、それぞれの表現の違いはあるけれど私は幾度も読み返した本の題名である。小学校六年生頃には“十五少年漂流記” “ロビンソンクルーソ”はなぜか男子が好むような本は、私はどきどきしながら楽しむのは“十五少年漂流記”は親からの自立心の願いがあったのかも知れない。子どもたちだけで無人島での生活は創意工夫の楽しさと何が起きるかわからない。冒険心がこの本の持つ魅力に幾度も読み返す愛読書になったのである。

それは、私の人間形成においての原点であるかもしれない。憧憬と冒険心、困難な険しい道へ強いて行こうとする性格はここ迄に出会ったご本たちに培われたのだろう。思春期を迎え私は、ますます読書にのめりこみ、文庫本を手あたり次第に読み始めて言うなら活字中毒者の始まりであった。それは母吉田弘美の存在が、私を活字中毒者に育てた張本人だからです。

母吉田弘美は、三人兄弟の長女に生まれ妹は三歳の時、白血病で亡くなり、弟は日本の侵略戦争の学徒動員にて戦死した。その後、一人娘として大切に育てられていたが、弘美の父はハンサムで金持ちだったので女性にもてて父と母はしょっちゅう女性問題で家の中はもめ事が多かったと、私は母弘美から幾度も聞かされている。

弘美は父母のいざこざから逃れるように文学の中で幸福な家族を描いて楽しむことが、公恵に引き継がれていったのは自然の流れでもあった。林文子“浮雲” “夏目漱石”“吾輩は猫である”ざっと取りあげただけでは書ききれないほどの本が、私には宝物であった。

私たち家族は、東大阪市若江東町の駅に近いところに天理教の洋館を借りて住んでいたのだが、一階の広々とした応接間にイギリス製のマホガニー色の堂々とした本棚に、母が収集していたらしい洋書が、並べられてあった。井上靖 “敦煌”の中身は私には年齢にふさわしいとはいえないが、文字だけは迫っていたのに中身については少しもおぼえがないのはよほどむずかしかったのではないだろうか。母が “女学生の友” を買ってくれたのは、何時の頃だったろう。母の若い頃の愛読書だったのだろうか。母が喜々として “女学生の友” を胸に抱えて私に与えてくれた日、私は挿絵の美しい女学生と男子学生の絵に胸を躍らされた、それは初恋の始まりを暗示する優しい物語だったと思うが、私は絵画にはまりだすきっかけにもなった。

高校生になると “女学生の友” を中心に西洋文学に没頭するようになったヘミングウェイ“誰が為に鐘がなる”をはじめとして“嵐が丘”は胸のときめきを「文学ノート」を作り読み終わった題名をひそかに書き込むことに心躍る喜びがあった。一人の作家を読み始めるとその作家の本は全て読みとおさなければいられないのである。

18歳の時、“嵐が丘” ロマンローラン“魅せられた魂” “嵐が丘”との出会いは険しい人生の岐路にたつ自分の姿に身震いを覚え私は、嵐が吹き荒れる丘に立ち険しい山の向こうに人生の指針に出会った私は女性の生き方を学び、人間はいかに生きるべきか?多くの本で学び、謙虚に生きる自分を見出したかったのである。

イプセンの “人形の家”ノラデスに描かれた男性中心社会において犠牲を強いられて多くの女性の哀しみに思い至り、それは母が残した社会福祉事業を通して出会った多くの母親たちの姿と声なき声を聴き幼い子ども達のために耳を傾ける自分の姿がある。

私は、文学を通して自己形成をしてきたと思うのは、文学の中で描かれた多くの作者たちの血と肉を読者たちに与えた功績は言葉で言い尽くせない素晴らしい贈り物を私達は受けて来た。

改めて文学と向き合い、人間の根源に迫り真実をコツコツと積み掘り起こしていきたいと私は願っている。

私の障がい人生 その3

キム・ビョンス(韓国在住)

私は高校1年から思うところあって一人で手続きをして京都の高校にいわゆる越境入学しました。生活は寄宿舎生活です。京都の左京区にあったこの高校は自然に恵まれ都心からも離れ落ち着いた学校でした。私が入学した前年、この高校はコンクール始まって以来はじめて地方学校の京都が優勝しました。それまでは東京の高校が中央の面子にかけて何をおいても優勝してきた歴史があります。

さて、途中入部となった私は大阪からきたことや足が不自由なことなどから先輩方から非常に可愛がっていただきました。特に忘れられないのはチョン先輩です。日曜日のバンドの練習のときにやってきては私たちと一緒に練習してくれました。大先輩が来て一緒に横で吹いてくれるほど何にも増す励みと勇気を与えてくれるものはありません。

ある日私は楽器を下げて京都三条京阪駅前のキャバレーの裏口からサックスを教えてくれと勇気を出して楽屋を訪ねました。すると、"なにしにきたんや!ここはおまえが来るとこちがう!教えてほしかったらおれが毎週行っておしえたる!"まさにそのチョン先輩がそこのバンドメンバーだったのです。高校を卒業して間もないのに京都のキャバレー界で"ベラミ"といえば大御所です。そういうところでメンバーとしてすでに働いていたチョン先輩の実力たるや相当な腕前だったのでしょう。余談ですが、"イムジン河"をフォーククルセダーズに歌わせた松山猛さんに"イムジン河"の楽譜を渡したと言われるサックスの厶ン グワンスさんは同じ高校ブラスバンド部の2つ上の先輩でいつも体育館で一人で練習しておられた姿が今も目に浮かびます。サックスという楽器は特に低音をスムーズに発声するのが難しい楽器ですが厶ン先輩は非常に柔らかく低音を発声されていていつもあこがれていました。

1年の終りごろの春休みに大阪に帰って兄弟や友人たちに会うと無性に懐かしく里心がつき大阪に戻りたくなりました。
いよいよ私の障がい人生の一大事故が発生します。(つづく)

私の障がい人生 その2

キム・ビョンス(韓国在住)

中学校に入ると体育の時間があり体育の先生は私の足を気遣い、いつも“見学”です。秋が近づくと運動会の練習がはじまります、思春期を迎え始める私には何とも言えぬ疎外感が私を苦しめます。

“パンパラパーン”と勇壮音が校庭の隅から聞こえてきます。ブラスバンド部が運動会の応援歌の練習をしているではありませんか! 近づいてみると、みんな椅子に座って楽器を吹いています。

“これだ!” 私は思わず喝采しました。これだと足が不自由でも関係なく、私はすぐ担当の音楽先生に私も入部させてくれるようにお願いして私の音楽人生が始まります。

長女の姉が美術の先生として私の学校に赴任してきました。

朝はいつも一緒に登校することになりますが思春期に入ります私は、びっこを引きながら歩く姿が、いつも気になって仕方がありません。私は姉と歩きながら商店街のガラスに映る自身の姿を横目で見ながらすこしでもびっこが正常な歩き方に見える方法がないものかと工夫しながら歩いたものです。商店街のガラス窓が過ぎて失望しながらうつむいて歩く私を姉は注意深く観察していたのでしょう。

“あんた男でしょ! 背中を真っすぐにして歩きなさい!” と、叱りつけます。今思うに姉は障がいに負けず堂々と生きることの出来る人間として私を見守り続けていたのでしょう。

そうして私は楽器をとおして学友とかかわり合い学生生活を送ることが出来ました。(つづく)

私の障がい人生 その1

キム・ビョンス(韓国在住)

私の障がいが始まったのは3歳児からだと聞いています。

足の裏に傷がありましたが、母は私の3歳下の子の臨月(結局死産でした)からもう足の傷は大丈夫だろうと6歳上の長女に私を入浴させました。

ところがまだ完治していなかったその傷から当時流行していた結核菌が膝に浸透し結局関節炎を起こし、数回の手術を受けた結果、現在のように膝関節がほとんど曲ることができない障がいを残したままに至りました。

不幸中の幸いは当時の医療技術では結核性関節炎は菌に侵された部位から切り落すしか方法がなかったものを大阪市大の豊島先生に父親が掛け合ってかろうじて膝から下をおとさなくともよい状態で関節の屈伸には不自由が残るものの今の状態で保存していただきました。

さて、私が最後の膝の手術を受けたのが、確か小学2年の頃です。手術後、足の成長を生かすために金具でできたコルセットを左右に装着して通学せねばなりません。朝コルセットを装着してくれたのは長女の姉です。「なんでおれだけこんなんせなあかんのや!」と姉に泣きながら訴えました、すると姉は「なにゅうてんのん!あんた男がやろ!」とまだ年端もいかない弟にそういって叱りました。

もうすこし小学校時代の思い出を・・・
当時私は足が不自由なせいで家の近くの近大大学附属小学校にかよっていましたが、運動会の時担任の芝先生が私を負ぶって走ってくれた記憶は忘れることが出来ません。

それと当時、同級生だった武田君は私に野球を教えてくれました。

今里に住んでいた真鍋和子さんはこんな障がいをもった私をお誕生会の時、家に招待してくれました。

最後に障がいとは別な辛い記憶。小学3年の2学期いつもバスで登校する時一緒だったHさんがバス停で並んで、待っていると「吉田君てチョーセンやったん?」なんとも人を馬鹿にしたような口調に、私は返す言葉を失いました。私は3年の3学期から冬休みの友の宿題をせずに済むと言う自己弁護から姉たちが通う民族学級へ転向を決めました。民族差別的表現と真っ向から立ち向かう勇気がまだ私の中では持ちえませんでした。

民族学校に転校するやすぐ上の姉は私を放課後みんなと遊びに通ったローラースケート場に私を連れて行き、足が悪くてもこれぐらいはしなさいとローラースケートを覚えさせました。私はこれが乗じてアイススケートにどっぷり猷まり、5~6年生の頃には学校をさぼって難波のアイススケート場に足しげく通ったものです。そんな私を見かねて長女の姉が私を長野県のアイススケートのメッカである白樺湖に連れて行きました。

ちょうどオリンピック選手たちが凍ってベストコンディションの湖畔の上で今迄見たこともないスピーで走っているのを目の当たりに、私もなんとか彼らに追いついて走ろうと滑っていると選手の一人が私のところに来て、もっと左足を曲げたらスピードがでるよとアドバイスしてくれました。私はそれからアイススケートを止めました。(つづく)

二人は仲良しきょうだい!

 今日は、近鉄百貨店のレストランで家族のお食事会!おばあちゃまもご一緒です。
ところが、ぼくは、食事を済ませたのでちょっとたいくつしのぎにレストランから出て姉の車いすにのっかってみたくなりました。車いすの二人乗りは、いけないって叱られそうだけど、僕は、一度、二人乗りをしてみたいと思っていたのです。

 ところが、おばあちゃんが、出てきたのは僕がいたずらをしないか心配だったようです。
ぼくが、既に姉の横に二人乗りをしている様子をみておばあちゃんはにっこり笑いだし、手に持っていたスマホで僕たちを写してしまったのです。
「二人が、とっても可愛すぎたから写してしまったわ。」
ママが、みたら怒られそうで心配だった幼いふたりでした。今は、そんなことはできない小学生と中学校生になりました。

 祖母である私が、残しておいた写真を素描にして絵画入れの中に隠していたのは、車いすで悪戯している様子を世の中に出すことに躊躇があったからです。
今回、思い切って孫たちの悪戯を絵画にしようと決心したのは、私の友人だと信じていた人が、障がいをもたざるを得ない人々の状況に対し、不適切な言葉を叩き込み私は、悔しさを我慢できなかったのです。障がいを受け持つ不便さをもたざるを得ない子ども達、若者たち、大人たちに対し、敬意をもって接してと欲しいと願う気持ちをどうしても抑えきれませんでした。

 多くの人々に指導されていらっしゃる西原なおみ先生にお願して最近、私は忙しさの中で絵筆を止めていましたので、作品を新たに描くにあたってどのような①色彩にすべきか、②筆のタッチを如何にすべきか、西原なおみ先生に細やかなご指導をお願いしました。とても明るいタッチで描くことが出来ました。
この場をお借りして心よりお礼申し上げます。※先生に書いてもらったのではないか?疑心暗鬼で言われちゃうかな…と心配しつつ…

 絵とはなにか、今は亡き坂崎乙郎(美術評論家)先生に教わったと思います。
脳の働き、指の動きの良い時、悪い時もあるけれど、

 現在、韓国にて音楽学院を創設して若者を指導している弟の障がいについて申し上げておきます。日本で生まれ育った弟の足について障がい者として彼女は唇をにたりとゆがめ侮蔑の言葉を吐きました。吉田家の家族は、日本の終戦直後、東大阪市若江東町の駅に近い天理教の敷地の奥深い場所にある三階建ての洋館を借りて住みました。100人は生活のできる立派な洋館の造りでした。母吉田弘美はエンゼル保育園の創始者です。私の母方の祖父は、日本の終戦前後以前から京都の西陣織を学び莫大な資産をつくり、大阪市の商店街に店舗を持ち工場には数十名の職人がいたと聞いております。祖父は、借り入れた天理教の三階建てに、吉田長太郎に吉田弘美を嫁がせ、韓国へ帰国する前に若江岩田の国道25号線に3000坪の土地を購入し、父の鉄工所と事務所を建て200名の朝鮮人と日本人を雇用しておりました。

 祖父は、韓国全羅南道康津郡の山身者で、穀物が肥沃な士地でしたが、米は住民の朝鮮人には食わされずすべてが、天皇様に送られるという理不尽さにいつもお腹を空かしている人々に対し日本の植民地施策に腹を立てていたと父が、話していました。

弟吉田泰久の障がいについて。

 天理教の洋館の三階建てに住んだ私たちは、終戦直後であり、進駐軍が朝鮮人を集めて会議をする為に一階の応接間を使いました。その日は、父はパリッとした背広にネクタイを締め、母は鮮やかな朝鮮服を着て参列する姿に幼い私は、胸がどきどきした覚えがあります。
広い庭園にはタイル張りの広い浴槽があり、広い庭に立ちぐるりをガラスに囲まれた浴槽から妹とふたり庭の葉陰から射す木の葉を眺めていました。毎日様々な人々が、お風呂にはいりました、終戦前後です、日本は結核菌が蔓延しており、私は、結核にかかり結核菌が、弟の足に影響を与えたのです。当時、天王寺の市立桃山病院に有名で立派なお医者様がおり、父は大きな声で泣きながら弟の足の手術をお願いしていたことを覚えています。結核の直りの遅かった私は、公立小学校に入学し、妹と弟は、八戸ノ里にちかい近畿大学付属小学校にオシャレな私学の制服を着て通学していました。先生に手術をしていただいたことが功を奏し、足を膝から切断せずに済みましたが、折り曲げられないけれど片足をなくさずに済んだのです。

 祖父母は、一般の船をチャーターして物資を山と積み荒れ狂う玄界灘を越えて祖国、朝鮮に帰国しました。

 弟は、高校時代はプラスパンド部に所属してテナーサックスを毎日のように吹いていたように記憶します。高校を卒業後、銀行に一年間勤め東京の和光大学文学部を4年間、東京のホテルボーイとして片足を引きずりながらレストランの給仕をしておりました、大学生活の資金稼ぎのために4年間頑張りました。

 その後、文学部卒業後、作家でもあった西部百貨店のオーナーの目に留まり西武百貨店にて韓国雑貨や韓国料理を出すようになり破格の値段で百貨店のスペースを貸してくださった。作家であり実業家でオーナーである異色の経営者であった堤清二様の暖かい配慮のもと弟は、事業を始めたのです。

 私にも温かいご配慮を頂き、韓国の画家を西部百貸店のギャラリーを提供されて展覧会を紹介させていただいたことも大切な思い出の数々です。
しかし、私の友人は、その後も家族の孫娘の障がいについて唇をゆがめ持ち出しました。孫娘の下半身麻痺について息子と嫁には何も聞いておりませんが、家族は孫娘を大切に知能には問題は有りませんので楽しく過ごさせております。障がいを持つ人々のしんどさを理解し、明るさを保持できるように優しい心づかいで障がいを持たざるを得ない人々への手助けを少しでも分かちあえるように心から願っております。

吉田公恵

私の絵を返してください!

夢の祭り社を開設するために絵画部門を作りました。

その為に描き溜めて来た絵、全ての作品に額縁を大阪メトロ玉造駅にある絵画、額縁の専門店に十数点発注を出しました。
しかし、そのなかで一点の絵が紛失されたと言うことでもどしてもらえませんでした。

日時が経ちましたが、この絵がどなたかの処でとどまっているのなら返却をお願いいたします。紛失した店舗の名前は書きません。

その当時の女性の店長さんも覚えてくださっていると思います。

私には思い出深い絵です。長男の息子を抱いた嫁の絵です。

慈愛

思い出のフォトグラフ

1.エンゼル保育園卒園児まちゃ君
久しぶりにエンゼル保育園を卒園されたまちゃ君からフェイスブックにコメントを頂きました。
男児の双子さんをお預かりさせていただきとても嬉しかった思い出が有ります。まちゃ家に待望の女の子が授かりまちゃ家と当時のクラス担任だった保育士と記念撮影。
担任の保育士吉田学、小泉繭香は後に結婚しました。

2.給食室女性チーフ、給食職員吉田閏奎、都野智文保育士さんはエンゼル保育園、あやめ保育園にて11年間勤務後、他市にて園長先生になられて現在も頑張っていらっしゃいます。

3.岡本先生もとっても頑張り屋さんで私の考案した保育ロッカーを使い都野智文先生とお遊戯会の舞台背景を素敵にカバーしてくださいました。
吉田閏奎先生は西区てのひら保育園の園長として頑張っています。

4.村川こずえ先生、イラスト、絵画がお上手でしっかりされて、私の片腕として深いお力を貸して頂きました。中西先生は背高のつぼの優しい先生で子どもたちの人気者。長らく音沙汰がありませんが、楽しい保育園生活を協力していただきました。

5.お名前を思い出せなくて「ごめんなさい」可愛い子どもたち、ママのお迎えをがんばって待っていました。お写真の顔がとっても明るくて嬉しいですね。
子どもってやっぱり大好きです。私たち大人を癒して慰めてくれる日を私は、幾度、味わったでしょう。

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