私が、自分の住処に戻ろうと決心したのは、疲れ果てた生活の金銭問題の為に立ち行かなくなったからである。一刻も早くこの問題を片付けなければならないと追い詰められた。それが第一であったが、突然自分の躰から噴き出したのは(何故、私はここにいるのだろうという)疑問が湧いたからだ。私は、何をした?
何を起こしたのだ。東大阪市の居住を捨てて、他市に移住しようと決心したのは、マンション内で起こった私への排斥は、突然、誹謗中傷という形から起こった。
内容については最初のプログ通りであるが、私には、耐えがたい内容である。
その時に私が、選択した行為は、この場所から逃げだす事であった。
このままここに存在することは、自殺という行為を選択せざるを得ない恐怖感が私を襲ったのである。
それは私が、幼い頃から味わった集団ヒステリーの始まりを予測した私に何か起こる時は、話題を提供される事象がある場合である。
そこには、なにか満たされない思いを持つ、首謀者となる人間が出てくる。
積極的に動き周辺を巻き込む頭の良い人の特性でもある。
世界的なCorona禍というパンデミックを彼女に、あたえられた口実は深く大きい、誰も疑わず彼女のシナリオに沿って役割を果たし、効果は万全だ。
そこにまた次のも創作されて大きな演出は、人々を狂わせていく。
私は、Corona禍のために首謀者Aシナリオ通り、職場への出動を止められ、Aの言われる通り自宅で仕事をすることになった。様々な分野の違う若い人たちは私のために自宅へ訪問することになったが、もう一人の首謀者Bは卑しい口実を付けて貶め、日夜、吉田公恵を3階から、見張っているから間違いないと文章化されている。その文章化については、マンションの女性掃除責任者Cは私に、書いた内容について申し述べている。
その後、化粧品会社の商品が繰り返し送られるようになり私は、東大阪市消費者センターへ苦情を申し立てて解決したが、女性マンション掃除管理人Cは、私が、東大阪消費者センターに申し立てを行ったことを確認している。
Cとは、電車の中で偶然出会った日、「Cさんは、マンションだけでなく他の仕事もされているのですか」と聞いたのは、化粧品会社の事に疑いを持ったからだ。
私の化粧品会社事件は、その後、同じパターンにより東大阪市消費者センターに申し出た人が、現れ注意事項が、マンション内掲示板に貼られている。
私は、それ以降は、自宅への訪問者にはマンションの部屋のドアを開け放ち、ドアに一掲示板に訪問者の名前を書き職業も書き備え、何時でも確認するように告げておいた。
私は、一刻も早くと焦り、不動産業者に連絡を取り荷物を預ける倉庫と新たな居住場所を選択することであった。しかし、私は自分の年齢のために借家も借りられない状況を知ることになり、自己の仕事に夢中になり、現在、日本における社会の高齢者施策には厳しい制限があることに気づかされて自分の住み生きる場所さえ決めることのできない社会構造を出来上がっていることは、恐怖に震えるほどの厳しいものであることに気づかされた。
身内の保証人の出番である。しかし、身内の保証人を得られない場合は、方法はない。むしろ、何ももっていない者は、国が助ける方法もあるかもしれないが、私自身は長年、仕事をしてきたおかげでそれなりに借金は多くありながら、持っているものもある。
家具類、この度のAの言う保育園を3軒も持ち家具を贅沢しているという原資の根拠を申し述べる。家具類は(40年以上前に心斎橋の女性社長「リチヤード」にて分割払いで購入し、その後「リチヤード」は倒産されている。(私には関係ない)外国製の商品が多く私の感性に訴えてくれた素晴らしい物です。Aは家具3点、ガラス製のテーブル一点をもって賛沢していると指摘されてその言葉で多くの人たちが誤解し翻弄された。洋服類が多い。(高校をでて難波デザイナー学院卒業後、現大阪芸術大学卒業)デザインは後に、保育ロッカーの独自性をデザインして現在、特許を取得している。そのほかでは日本製の食器戸棚、日本製の鏡台は母の形見、日本製の下駄箱は、廃棄処分後のアルミ製? の1万円からのもの置台は簡易な5台は私の保育関係、大学への出向の書類は。学生たちの試験用紙等今回、かなりの書類を破棄しました。自宅に戻ってきた私の引っ越しにも箱の多さで、また私への憎悪が沸き起こったようです。しかし残念ながら箱の内部を見ていない方には残念です。私の描いている絵画類、論文、小説類、調査したい方は、何時でも開示いたします。しかし、私は。子どもの頃は父のお陰でアメリカ製のリンカーンを乗せてもらっていました。
しかし、その後は車を自分で持ったことは一度もありません。女性掃除管理人Cはその件を3階の女性Bと会話を交わして文章を書いたと原質を私に伝えたにも関わらず言っていないと現在は取り消している。
マンションを借りようとしたが、年齢及び保証人を立てられず、その時に奔走してくれた「中野興産」の中野様には大変なご努力を頂きました。おかげさまで保証人問題をクリアー出来て三重県のマンションに入室できました。改めてこの場をお借りしてお礼を申し上げます。
幾日だったか、記憶に乏しいが、引っ越す数日前、私は上本町の電車乗り場にたっていた。一人の女性が、私の横に立っていた。電車のアナウンスが、電車の到着時聞を告げていた。いつの間にか女性の姿は、消えて男性が私の横に並んだ。
見知った顔のように見えるが、漠然としてわからない。
電車が、到着すると、男性は私を電車のドアが開くと押し出すように私を電車の中に押し込んだ。男性は駅に佇みドアのガラス越しにホームに立ったままでわたしを見つめていた。
電車に飛び込もうとしているかのような私をその人は不審に思ったのだろうか? 今考えると私は、精神的にかなりまいっていたのは事実だ。
「死にたい」と何度も繰り返して呟いたのも真実である。(私は起訴を起こすことの面倒臭さの思いも去来していた(メンドークセエー)年齢の待ったなしの私には、もうどうでもいいと思うこともある。
東大阪市のマンションから逃亡した最大の原因は、最初のブログに書いた5階に住むと言う(自称5階居住女性は。私に言ったのは、後に私に自分は6階に住むKであると額田の大阪行きの方面乗り場で名乗っている。私に嘘をついていたことを隠したかったのか。それとも私に別人であるかのように装いたかったのか? なんと稚拙な嘘をつくのだろうと疑った。おそらく私を高齢者だからとCamouflageを目論んだかなと思い、また稚拙なI嘘をつくのだろうと二度がっかりした。彼女は偶然を装い、たまたまであったかのように話をする。
額田の駅で彼女は、椅子にすわりオレンジのジャンパー姿の男性と腰かけていたので、私が、通ると立ち上がりわたしの横に腰かけたのでご主人ですか。と伝えると違うと言った言葉に私は思い出した。「私の夫は吉田さんと一緒の年齢です」そのことと共に、2階のYとは時々話すと言っていた言葉も幾度か聞いている。その時、ジャンパーの背の高い男性は私を見ながらホームの前にすすんだ。
私は、最初は、彼女が自分の付き合っている男性を私に魅せたかったのかと想像したが、私は、その日は特に気分がすぐれず上本町の喫茶店に行きたいと思ったので、電車に乗り込むと彼女も乗り込み、自分は瓢箪山に買い物に行くと言いながら、買い物袋も財布も持っている様子がなかったので不信を覚えた。その後、瓢箪山で降りたが、オレンジの男性は、何処で降りたのか、見受けられなかった。
彼女は、私が、何処へ行くのか聞き、オレンジの男性に伝えるべく用意していたのかと私の中に彼女への疑いを覚え、気分が悪くなった。
私のマンション中で響く乱暴な声で私への誹務中傷をまき散らしたことは、明白な事実である。その事実を知っている人間は相当数いるに違いないが、沈黙を通している。それらとは別に2階に住む女性Yは職場への出勤を他の女性と共にcorona禍を理由に阻止された事実は、足の手術のため大阪市大病院で手術後、治療の引継ぎにより治療のため毎日通っていた病院への2週間にいちどの通院に変更するために理由書を提出することになった。
彼女は、私を「保育園を3軒も持ち賛沢な家具を置き、賛沢に暮らしている」と近隣の住民に流したために多くの人々に誤解と錯覚を与えた。
マンション管理人の一方的な好意行動は。二階のY女性の言動が引き金になり、私が他府県に土地を持ち、新たな計画を知ったから急激に近づいたのである。
私は、管理人のいる時間帯には一歩も出ず生活を余儀なくされることになった。一度は、三重県に引っ越したあとマンションに戻り、郵便物を取り、ポストにいった時、マンション管理人Nその時、黒のコートを着た女性の前で私を罵倒されてから、私は管理人に恐怖感を覚えるようになった。
話は、前後するが、近くの交番所から、高齢者の安否確認の見回りの日、私が、2階の出入り口に外出しようとしたとき、管理人Nが私を抱こうとした。大声で警察官を呼ぶと、警察官は、(どこです?)と駆け寄ってくれたのだが、姿はすぐに消えたのである。その日が非番であったかどうかはわからないが。私その日より警戒をよりするようになったのは、ノイローゼ気味になっていく自分の姿が、恐ろしくなっていく。3階に居住する女性Aの誹誘中傷の中身は、私の部屋を毎日、監視していたという事実を、マンション掃除管理人は詳細に述べた文章があるにもかからず現在は、全面的に自己否定するのは、正義感のなさ、弱さであるだろう。それは自己保身以外何でもない。
私が、最初に逃げ出す前に法的に訴えなかったのは、事業を何年もした人間の私は、働く人々の暮らしを深く知っていたたことが、自分と共に苦境に追い込みたくない考えが深く染みわたっている。
しかし、それが私自身を苦境に追い込み、より生活基盤を揺るがせ、様々なところに信用を無くす結果を招いた。
信用というのは一度、地に落ちると疲れた鴉のように黒々と道端に転がるだけである。二度と鴉は立ち上がる気力はないけれど最後のカを振り絞って私はブログを再度書く。
それは私を保育園に戻せと言う人々が、存在してくれたという事実を知ったからです。誰、がどのような言葉で私を「しっかりしろよ」とお尻を叩いてくれたのかは聞いていないけれど、励ましてくれてありがとう。
「貴女は優しい人間だよ」って認めてくれてありがとう。
三重県津新町のPEERの皆さん! 津新町で、出会った優しい皆さんにお礼を申し上げます。そして東大阪市の小坂病院主治医渡遺琢也先生心からお礼申し上げます。勇気と生きる覚悟を頂きました。
Hauser Stjepan Cellさんには、多くの幸せとあなたの美しい音色は、私を癒し幸せを頂きました、皆さんへ心よりお礼を申し上げます。
私は、生き方のへたくそな人間ですが「頑張ってみるぜ!」これからもよろしくお願いいたします。
私の大好きな優しい人々へ。
2024年3月5日 吉田公恵