若い母親に手のひらのあたたかさを

 私の勤務する地域貢献事業室の扉を押して外に出るとエンゼル保育園、5PM前後には、勤務を終えた保護者方が、子どもたちのお迎え時間の始まりです。
保育園前に、何台かのお迎えの自転車が並び、保護者たちの後ろ姿も見える。

 エンゼル保育園の小さな園庭には子どもたちが大好きな2台のブランコがあり、乗れた子どもが漕いでいる。二人の姿を見ているともう少し広い園庭があれば、プランコに乗れる子どもたちの数が増えるのになあって、チクリと胸が痛みます。

 お迎えのママの姿を見つけた女児が、保育園の扉の方へ走る姿が見えたので私も追いました。ママも自転車を置いて子どもを見つけて自転車に乗せたので安心した私は、若い母親の頭に何故だろう、自分の手のひらを軽く乗せていました。

 子どもを自転車に乗せる彼女の仕草が、愛おしくて、その時、互いの交感した心の感触は彼女の微笑とともに温かく私の思いを受け止めて柔らかな後ろ姿を残し、家路に向かいました。
後ろ姿を見送る私にStejepan Hauser Cello Waitz 2番(Shostakovich)が脳裏こ浮かび、不思議な柔らかな感覚にとらわれたのは、若い母親がくれたプレゼントだったのでしょうか。

Stejepan Hauser
マツダ写真機店にてプリント

貴女が来てくれた最後の日

 あやめ保育園園長室の電話のベルが鳴った。
「園長先生! 私、明日退院できるのよ」
「うわぁーよかったね!じゃ、明日お昼ご飯を私の部屋で食べよう」
「給食室に頼んでおくからね。きっとよ、約束だよ」
私は、しつこいくらい念を押すと彼女は来ると約束をしてくれた。体調を崩していた彼女は、入院していたが、一カ月で退院できるようである。

 彼女は、青白い肌の色が透き通るように綺麗で黒い瞳が大きく、男児と女児二つ違いの子どもたちは、母親に似て色白の目鼻立ちの整ったしっかりした子どもを授かり、義父と共に5人家族で暮らしているが口数の少ない女性であった。
夫の義父の娘は近くに家庭を持ち、義妹は気立ての良い優しい人で、子どもたちを大切に可愛がってくれている。

 義父は私の園長室を毎日のようにノックして、おしゃべりをして行くのだが、核心の問題に触れず取り留めのない話をするだけであった。
私が核心に触れないのは、辛抱強く待つという姿勢を崩さないからだろう。
家族の内情に義父も一歩、踏み出せなかったのは、遠慮があったのかもしれない。
しかし、それが、私を二日も待たずどん底に突き落とされる結果を招いた。

 次の日、彼女は園長室の扉を静かにノックし、柔らかな笑みを浮かべて入ってきた。給食室に電話を入れて彼女が来られたので給食をお願いした。
給食を頂きながらとりとめのない言葉を交わし、一時間半ほどいただろうか。彼女は、食事の終わった私の給食盆と自分のお盆を重ねて丁寧な挨拶をして園長室から帰っていった。それが彼女と最後の晩餐になるとは想像もできなかった。

 二日を置いただろうか。担任保育士から彼女が、亡くなり明日が葬式だと聞き、私はあああーと声もなくへたりこんでしまったのは、とても葬式に行く気力のない自分の心の不甲斐なさ、葬式への出席を担任保育士にお願いしたが、涙も流れず虚脱感だけが私を襲ったのである。

 25年も前に起こった彼女の死は、私に言えない苦しみを背負い自分の安息な場所に逃避したのだろうか。私は現実社会が嫌になってしまったのは誹謗中傷という恐ろしい世界を、私を苛む事態を想像できなかった。私の考える世界は、いつもメルヘンの世界だったのだろうか。
違う!? 苦しい事もあった。嫌な事もあった。其れ以上に保育園の子どもたちとの生活の喜びは深く楽しく私は、福祉事業を放棄する考えは一度もなかった筈だ。人間が誠実に生きるために私は、夢を追っていただけなのか?

 神戸の武田設計事務所の大学教授にお願いしたあやめ保育園施設は子ども遠の将来にわたる夢と希望、志を人間性の礎を託す最大の贈り物として創り上げたものであると私は自負していた。
それを周りの人間の欲望が捻じ曲げられ自分の物にしたがる人間の醜さを露呈し、薄汚れた汚物のように私は醜いアヒルを寝屋川市に残してしまった。
どこにも薄汚れたものは、無かったはずなのに人間の俗悪さが、私をここ迄、追い込まれてしまったのだ。

 誹謗中傷を受けることが、私をこれほどに苦しいとは…現代社会の子ども達に起きているいじめの問題、親の虐待問題。最近の旭川2件の事件。教師のわいせつ事件等後を絶たない。結愛ちゃん事件の追悼もありました。スーツケースに詰め込まれた子どもの死体を草むらに捨てた非道なケース。それにもっと脅しいニュースは、ゴザで行われた900人の子どもたちの四肢を切り落とした残虐な行為。戦争、紛争はどこまで止むことのない現代社会を破壊するのか。父親殺し、母親殺し、私には、もう居場所がない。

 私の居住するマンションには、私への誹謗中傷、管理人のセクハラ問題等で私を、毎日のように不審者のような目で見る人、子どもを近づかせないようにする人、挨拶も交わせないのは私と接触したら何を書かれるかわからないと用心する人達。私は叫びました「私を殺しなさい」知らないうちに噂は静かに消えるでしょう。黙っていれば、社会も時が忘れてくれる。
地方に住みなれない私の下手さが、露呈したのか。生活に行き詰まり戻ってきた私を温かく迎えてくれた住民のかたもいる。私を徹底的に憎み、出勤を停止させるまでカを発揮した首謀者A、B、C(マンション中に大声で誹謗中傷をばらまいた)私といかにも信頼関係があるがごとく吹聴して自分の手元に収めた女性掃除管理人D。マンション男性管理人Nは私の帰宅時、いそいそと後ろからついてきたうす気味の悪さは、私の小さな叫びを聞き遠のいた。それからは管理人Nがいる時間には一歩も外に出られなくなった。
※マンション玄関に設置されている吉田の室内呼び出し部分に外国人が来た場合、管理人にお知らせくださいとペンキで書かれて消せないようにしている。

 今は、会えなくなったあなたにもう一度、会いたい。あなたの苦しみ。悲しみを今だったら少しは貴女を癒せる言葉とメロデイーを共有できるだろうか。
あやめ保育園の卒園式だったと思う、あなたの義妹が、式の途中でハンカチを口元に抑えて会場を出て廊下から、堰を切ったように激しく泣く声が聞こえました。この場所に長男の卒園式に参加できなかった義姉の存在を思うと鳴咽を抑えられ、なかったのでしょうか。
義妹さんに会って二人であなたを心から偲びたい。あなたを忘れない二人がいます。

 私は、地域貢献事業室として個人財産のローンが終わったので寄付して法人施設課の了解を得てエンゼル保育園の預金から、3階倉庫、2階男女別の休憩室、シャワ一室、一階を地域貢献事業室として活動を始めたのは、あやめ保育園を退職して地域貢献事業室に席を置いたわたしを、住民の方から現代社会の老人世帯が、様々な問題を抱えているから、力になれないだろうかとお話を頂いたからです。
しかし、それまで別の案件があり、携わっているうちに好転してきたので住民の方のご要望に取りかかるべく思案していたのだが、私のマンション内で誹謗中傷事件が起こった。

 25年前に起こった彼女の死をいま私は、彼女の苦しみを理解する力のなかった貴女の側で見守り、私は弱いのか強い人間なのかわからなくなりました。
至るところで、誹謗中傷は、人々を苦しめ自死を選択する内容も多岐にわたり小さな子どもから小学生、中学生高校生に、至っています。

 ジャーナリスト伊藤詩織さん事件は日本を捨てて他国で生きる道を選ばずにいられない境遇になりました。逆提訴を受けて莫大なお金を支払うことになるのでしょうか?リュウチエルさんの事も私には、忘れられないのです。

 父親殺し、母親殺し、高齢者の放置事件、結愛ちゃん虐待問題の追悼も報道され大人の不甲斐なさをお詫びした言葉もあります。

 私は、長年、仕事をしてきましたが、幻想の中でもがき理想像を人間に求めていただけなのでしょうか。
「保育園を自分だけのものにして兄弟に分けなったからひどい目にあったのよ」
骨の砕ける音。肉の剥がれる落ちる声が聞こえたように思った。
そうだ・子ども時代から、ことあるごとに投げられてきた数々の言葉を蘇る。
そして、同窓会に参加するか否かで神経を使わせていた同窓生の男性に対する言葉を如何にもなにかありそうに平気な言葉を出す女性、もううんざりだ。

 皆さんもうやめませんか、優しい心を取り戻しませんか?
これからの日本を新しい気持ちで頑張りませんか? 心よりお願いいたします。

2024年7月22日吉田公恵

2024年8月11日 貴女を探しています

 8月11日(日)です。
私は昨日、近鉄布施駅に用があって行きました。改札口に出るために最後尾のエスカレーターに並ぶと私の前に女性が、立たれたのでお先へと譲りますと彼女も私にと譲りますが、私は改めて頑固に譲ると彼女はニコニコして私の洋服姿を見て

「素敵な洋服を着ていますね」
「この洋服はとても古いのですよ。もう35年はなるかな」
「とてもstyleが良くて似合っていますね」

私はこのような言葉を頂いたのは初めてなので驚き気分は最高潮?!
実は10キロもやせたのです
「このskirtは、ケンゾーさんのです」
若く見える彼女は《ケンゾーブランド》はご存じないかなと思いつつ初めて出会った私に握手を求めました何度も。そして言葉に「私のようにならないでね」と言ってエスカレーターは2階のプラットホームの区切りに留まると彼女は降りたが、なぜか私をみたまま動かない。

立ち止まったままなのである。彼女の乗る電車が到着しているのに。
 すれ違う時間差で私は、布施駅の改札口に向かいましたが、彼女は、エスカレーターの上から私を見送っていました。
 別れて数分後、なぜか私は、胸が締め付けられたのです。彼女は心に何かを抱えているのではないか。偶然出会った私の洋服に惹かれ、見ず知らぬ私の手を握り締めて私を見送った。私は、別れ際に何故、私の名刺を渡さなかったのかと侮やみました。私は、もう一度、貴女に会いたいのです。
 どうか、このブログを見ていただけるか。他の方がこのブログを見つけて貴女を見つけて欲しいのです。連絡を欲しいのです。ケンゾーブランドの大好きなSkirtをブログに載せます。
彼女は、小柄で年齢は推察できないけれど化粧つけはありませんでした。
お手数ですが、気に留めていただければ、心より感謝申し上げます。

子どもたちの世界はだいじようぶかな?

 地域貢献事業室の仕事場に向かうために、静かな住宅街を歩いていいた。
地域の中学生らしい少年が、4人、ぺたりと花園西町自治会館で座り込んでいる。
なんだか明るい空気がながれているので思わず声を掛けました。

「あれつ、もうお勉強終わったの?」

「今日はテストだけなので終わったのです」

「そう。成績はどう?自信ある?」

「駄目です」

 口々にがっくりした表情の少年の中で一人だけにっこり自信のある少年がいる。(そうなの?じゃあ私が先生にお願いして成績を上げてもらおうか?)
と冗談めかして言うとそんなことできないことをわかる中学一年生だがそれでも明るい表情が、純粋無垢な少年たちの未来を照らしてくれているようで私を明るくさせてくれる。

 その日の仕事を終わり、帰宅するために若江東町公園の出口に昨日、私が見つけた公園の入り口にビニール袋を被せた忘れ物がまだ置かれた状況にあることに気づき滑り台で遊ぶ女子二人、男子一人に声をかけた。

「ねえ、この忘れ物の持ち主わからない?」

「それは、三週間ぐらいたつよ」

 子ども達が、私の側に来てくれたので、まだ真新しく見えるしっかりしたバッグの中を男子がのぞき込み名前があることを確認してくれた、

 お稽古用のバッグにはKUMONと書かれていたことも確認できたので、さてこれをどうすべきか考え、忘れものを渡してあげたいと思い、方法を考えたのだが、このパッグのお稽古事は鏡神社の近くであることが子どもたちの話で判明した。

「鏡神社が、近かったら探せるね。」

「お母さんに、遠くへ行ったらいけないと言われている」

「場所のわからないところに行ってはだめって言われている」

「スマホで探せるね」

「スマホはお母さんの許可がないと使ってはいけないと言われている」

 くちぐちのお約束事を子どもたちが言う話を聞きながら、自分自身の子育て時代とはずいぶん変化があることを実感しながら、報道される社会問題が、鮮明に伝わり現代の子ども世界の変容を私たちはいかに受け止め教育問題に真撃に向かいあう責務があることを私は、伝えなければと焦る気持ちを抑えられなかった。

 公園の中では、低学年の少年たち12~13名だろうか、サッカボールを蹴りながら楽しそうに過ごしている姿は私をホッとさせた。

 三人の少年、少女を私の職場に案内して忘れ物を私が、預かっていることを伝えたが、三人の子どもたちの顔の暗さを私は気になるまま別れた事は心残りであった。
落し物に心当たりがある方は、エンゼル保育園地域貢献室吉田またはエンゼル保育園事務室までお問合せ下さい。

2024年6月27日(木) 吉田公恵

喫茶 麓(ふもと)

 東大阪市近鉄瓢箪山駅を降りると角に果物屋があり広場にはタイル張りの噴水用地の淵に腰かける人々を見かけることがある。

 国道方面を目指すと左手に、神田広場があり、毎年桜が大きく枝を伸ばし咲く。右手には油川動物病院があるのでとてもわかりやすく油川動物病院を目指すと喫茶麓がある。

 扉を開けると70代ぐらいの女性3人が、モーニングサービスを頂き終わったのか、何やら楽しそうにお話し中?

 決して広いとは言えない店だが、古民家と言われているらしく、風情が漂っている。天井の梁は黒色で縦横に支えられ、壁際には、スモーキーな色が何とも言えない雰囲気のあるガラス扉が三連に繋がり中身の見えない柄が施されている。年季の入った威厳のある銅板のカウンターにはママさんの丹青のこもったモーニングサービスが出番を待っています。500円

 喫茶麓の歴史は古い、60年を経て店主は二代目だと聞く。床面の赤茶色のタイル張りは、色褪せることなく深い色合いが、美しく残されている。床面を一段上がると4人掛けのテーブル二台並ぶ。
私は、その狭さは嫌いではない。人間同士の息遣いに親しみが湧く。(少しくっつき過ぎかな?) corona禍では生まれなかった人間同士の柔らかさ、親しみやすさを私は好きだ。
客層は、東花園のリージョンセンターで絵画を学び、現在は講師になられた男性の方、70代、80代三人の女性は、新舞踊を習い楽しみ、背筋がピンと伸びて張り、足元からの姿が綺麗だ。

 底の壁には風景画をかけられている。テーブルの上に置かれた上皇后様の若い頃の写真ブックに懐かしさを感じた。

 店主の作るモーニングサービスを、常連客さんが、新しいお客様ヘ運ぶサービスを手伝う姿は、なんだか温かくていい雰囲気。

 店主のママさんは、《みんな家族のような、昔ながらの人情の厚ささが残っている喫茶麓の大切なお客様です。》地域のよりどころと愛情をこめておっしゃる言葉は温かい。

 年齢層の高いお客様のためにモーニングサービスのパンの表面を細かく斜め切りにしているのは、パンの中にバターを染みこむようにとの配慮とパンの淵が固いので歯切れよく食べていただけるようにとママさんの心遣いです。

 多種多様な客層は、昭和42年に7月にオープンされた《レコード店ミヤコ瓢箪山店》の店主の方、市会議員の常連の方2,3人来られることがあるらしく、要望等に耳を傾けてくださるそうです。

 最近では地域の交通手段についてお話をしたと聞く。
若い学生さん、介護士をされている方も最近では増えているそうです。店を出て瓢箪山駅に戻る道、右側沿いに多種多様な花木は、住民の方が持ち寄り景観を保っていたが、最近では放置されているのは住民世帯の若い層が減少しているために、行き届かなくなっているためだと聞いたのだが、現代の日本国の衰退を象徴されているようで寂しく感じるのは私だけでないだろうと思い胸が痛む。

2024年5月23日吉田公恵

村川こずえ先生

 お変わりなくお過ごしでしょうか。

 引っ越しのため整理していましたところ、先生がエンゼル保育園より退職されるとき、残してくださったお別れのメッセージノートが、出てきました。

 エンゼル保育園主任保育士として、共にお仕事をしてきた戦友だった。
こずえ先生は、私が、出会って来た人々の中でも、とりわけ印象深い方です。イラストを描くのが、とてもお上手で保育園の様々な用紙の作製について多くの楽しいイラストが今も残っています。

 こずえ先生のお話の中でも印象に残っているのは、ロシアのソ連時代にシベリヤ鉄道を3週間にわたり旅行をされて列車の中で、ロシヤ女性のスケッチを多く残せたというお話を、当時、園長だった私が、どんなに羨ましかったか、覚えていますか?

 こずえ先生が、エンゼル保育園を退職される記念に、ほんの小さなダイヤのネックレスを用意したのですが、福祉事業に携わる私たちにはそぐわないとおもいつつ私はこずえ先生に用意したかったのです。

 色白でお綺麗なこずえ先生の私に残してくれた思い、協力は深く大きなものがあります。貴女の胸に、ダイヤネックレスは、小さな光を今でも投げかけてくれているでしょうか。

 その後、こずえ先生は、地元の保育園で園長先生に就任されたこと聞きましたね。才能と人間性で、地元の保育園で皆さんの為に頑張っていらっしゃると思います。お元気で楽しい保育園生活をお過ごしくださいませ。ごきげんよう。

2024年3月14日

吉田公恵

自分の立つ位置に戻った理由?

 私が、自分の住処に戻ろうと決心したのは、疲れ果てた生活の金銭問題の為に立ち行かなくなったからである。一刻も早くこの問題を片付けなければならないと追い詰められた。それが第一であったが、突然自分の躰から噴き出したのは(何故、私はここにいるのだろうという)疑問が湧いたからだ。私は、何をした?

 何を起こしたのだ。東大阪市の居住を捨てて、他市に移住しようと決心したのは、マンション内で起こった私への排斥は、突然、誹謗中傷という形から起こった。

内容については最初のプログ通りであるが、私には、耐えがたい内容である。

その時に私が、選択した行為は、この場所から逃げだす事であった。

このままここに存在することは、自殺という行為を選択せざるを得ない恐怖感が私を襲ったのである。

 それは私が、幼い頃から味わった集団ヒステリーの始まりを予測した私に何か起こる時は、話題を提供される事象がある場合である。

そこには、なにか満たされない思いを持つ、首謀者となる人間が出てくる。

積極的に動き周辺を巻き込む頭の良い人の特性でもある。

 世界的なCorona禍というパンデミックを彼女に、あたえられた口実は深く大きい、誰も疑わず彼女のシナリオに沿って役割を果たし、効果は万全だ。

そこにまた次のも創作されて大きな演出は、人々を狂わせていく。

 私は、Corona禍のために首謀者Aシナリオ通り、職場への出動を止められ、Aの言われる通り自宅で仕事をすることになった。様々な分野の違う若い人たちは私のために自宅へ訪問することになったが、もう一人の首謀者Bは卑しい口実を付けて貶め、日夜、吉田公恵を3階から、見張っているから間違いないと文章化されている。その文章化については、マンションの女性掃除責任者Cは私に、書いた内容について申し述べている。

 その後、化粧品会社の商品が繰り返し送られるようになり私は、東大阪市消費者センターへ苦情を申し立てて解決したが、女性マンション掃除管理人Cは、私が、東大阪消費者センターに申し立てを行ったことを確認している。

Cとは、電車の中で偶然出会った日、「Cさんは、マンションだけでなく他の仕事もされているのですか」と聞いたのは、化粧品会社の事に疑いを持ったからだ。

私の化粧品会社事件は、その後、同じパターンにより東大阪市消費者センターに申し出た人が、現れ注意事項が、マンション内掲示板に貼られている。

私は、それ以降は、自宅への訪問者にはマンションの部屋のドアを開け放ち、ドアに一掲示板に訪問者の名前を書き職業も書き備え、何時でも確認するように告げておいた。

 私は、一刻も早くと焦り、不動産業者に連絡を取り荷物を預ける倉庫と新たな居住場所を選択することであった。しかし、私は自分の年齢のために借家も借りられない状況を知ることになり、自己の仕事に夢中になり、現在、日本における社会の高齢者施策には厳しい制限があることに気づかされて自分の住み生きる場所さえ決めることのできない社会構造を出来上がっていることは、恐怖に震えるほどの厳しいものであることに気づかされた。

 身内の保証人の出番である。しかし、身内の保証人を得られない場合は、方法はない。むしろ、何ももっていない者は、国が助ける方法もあるかもしれないが、私自身は長年、仕事をしてきたおかげでそれなりに借金は多くありながら、持っているものもある。

家具類、この度のAの言う保育園を3軒も持ち家具を贅沢しているという原資の根拠を申し述べる。家具類は(40年以上前に心斎橋の女性社長「リチヤード」にて分割払いで購入し、その後「リチヤード」は倒産されている。(私には関係ない)外国製の商品が多く私の感性に訴えてくれた素晴らしい物です。Aは家具3点、ガラス製のテーブル一点をもって賛沢していると指摘されてその言葉で多くの人たちが誤解し翻弄された。洋服類が多い。(高校をでて難波デザイナー学院卒業後、現大阪芸術大学卒業)デザインは後に、保育ロッカーの独自性をデザインして現在、特許を取得している。そのほかでは日本製の食器戸棚、日本製の鏡台は母の形見、日本製の下駄箱は、廃棄処分後のアルミ製? の1万円からのもの置台は簡易な5台は私の保育関係、大学への出向の書類は。学生たちの試験用紙等今回、かなりの書類を破棄しました。自宅に戻ってきた私の引っ越しにも箱の多さで、また私への憎悪が沸き起こったようです。しかし残念ながら箱の内部を見ていない方には残念です。私の描いている絵画類、論文、小説類、調査したい方は、何時でも開示いたします。しかし、私は。子どもの頃は父のお陰でアメリカ製のリンカーンを乗せてもらっていました。

 しかし、その後は車を自分で持ったことは一度もありません。女性掃除管理人Cはその件を3階の女性Bと会話を交わして文章を書いたと原質を私に伝えたにも関わらず言っていないと現在は取り消している。

 マンションを借りようとしたが、年齢及び保証人を立てられず、その時に奔走してくれた「中野興産」の中野様には大変なご努力を頂きました。おかげさまで保証人問題をクリアー出来て三重県のマンションに入室できました。改めてこの場をお借りしてお礼を申し上げます。

 幾日だったか、記憶に乏しいが、引っ越す数日前、私は上本町の電車乗り場にたっていた。一人の女性が、私の横に立っていた。電車のアナウンスが、電車の到着時聞を告げていた。いつの間にか女性の姿は、消えて男性が私の横に並んだ。

 見知った顔のように見えるが、漠然としてわからない。

電車が、到着すると、男性は私を電車のドアが開くと押し出すように私を電車の中に押し込んだ。男性は駅に佇みドアのガラス越しにホームに立ったままでわたしを見つめていた。

 電車に飛び込もうとしているかのような私をその人は不審に思ったのだろうか? 今考えると私は、精神的にかなりまいっていたのは事実だ。

「死にたい」と何度も繰り返して呟いたのも真実である。(私は起訴を起こすことの面倒臭さの思いも去来していた(メンドークセエー)年齢の待ったなしの私には、もうどうでもいいと思うこともある。

 東大阪市のマンションから逃亡した最大の原因は、最初のブログに書いた5階に住むと言う(自称5階居住女性は。私に言ったのは、後に私に自分は6階に住むKであると額田の大阪行きの方面乗り場で名乗っている。私に嘘をついていたことを隠したかったのか。それとも私に別人であるかのように装いたかったのか? なんと稚拙な嘘をつくのだろうと疑った。おそらく私を高齢者だからとCamouflageを目論んだかなと思い、また稚拙なI嘘をつくのだろうと二度がっかりした。彼女は偶然を装い、たまたまであったかのように話をする。

額田の駅で彼女は、椅子にすわりオレンジのジャンパー姿の男性と腰かけていたので、私が、通ると立ち上がりわたしの横に腰かけたのでご主人ですか。と伝えると違うと言った言葉に私は思い出した。「私の夫は吉田さんと一緒の年齢です」そのことと共に、2階のYとは時々話すと言っていた言葉も幾度か聞いている。その時、ジャンパーの背の高い男性は私を見ながらホームの前にすすんだ。

私は、最初は、彼女が自分の付き合っている男性を私に魅せたかったのかと想像したが、私は、その日は特に気分がすぐれず上本町の喫茶店に行きたいと思ったので、電車に乗り込むと彼女も乗り込み、自分は瓢箪山に買い物に行くと言いながら、買い物袋も財布も持っている様子がなかったので不信を覚えた。その後、瓢箪山で降りたが、オレンジの男性は、何処で降りたのか、見受けられなかった。

彼女は、私が、何処へ行くのか聞き、オレンジの男性に伝えるべく用意していたのかと私の中に彼女への疑いを覚え、気分が悪くなった。

 私のマンション中で響く乱暴な声で私への誹務中傷をまき散らしたことは、明白な事実である。その事実を知っている人間は相当数いるに違いないが、沈黙を通している。それらとは別に2階に住む女性Yは職場への出勤を他の女性と共にcorona禍を理由に阻止された事実は、足の手術のため大阪市大病院で手術後、治療の引継ぎにより治療のため毎日通っていた病院への2週間にいちどの通院に変更するために理由書を提出することになった。

彼女は、私を「保育園を3軒も持ち賛沢な家具を置き、賛沢に暮らしている」と近隣の住民に流したために多くの人々に誤解と錯覚を与えた。

 マンション管理人の一方的な好意行動は。二階のY女性の言動が引き金になり、私が他府県に土地を持ち、新たな計画を知ったから急激に近づいたのである。

 私は、管理人のいる時間帯には一歩も出ず生活を余儀なくされることになった。一度は、三重県に引っ越したあとマンションに戻り、郵便物を取り、ポストにいった時、マンション管理人Nその時、黒のコートを着た女性の前で私を罵倒されてから、私は管理人に恐怖感を覚えるようになった。

 話は、前後するが、近くの交番所から、高齢者の安否確認の見回りの日、私が、2階の出入り口に外出しようとしたとき、管理人Nが私を抱こうとした。大声で警察官を呼ぶと、警察官は、(どこです?)と駆け寄ってくれたのだが、姿はすぐに消えたのである。その日が非番であったかどうかはわからないが。私その日より警戒をよりするようになったのは、ノイローゼ気味になっていく自分の姿が、恐ろしくなっていく。3階に居住する女性Aの誹誘中傷の中身は、私の部屋を毎日、監視していたという事実を、マンション掃除管理人は詳細に述べた文章があるにもかからず現在は、全面的に自己否定するのは、正義感のなさ、弱さであるだろう。それは自己保身以外何でもない。

私が、最初に逃げ出す前に法的に訴えなかったのは、事業を何年もした人間の私は、働く人々の暮らしを深く知っていたたことが、自分と共に苦境に追い込みたくない考えが深く染みわたっている。

 しかし、それが私自身を苦境に追い込み、より生活基盤を揺るがせ、様々なところに信用を無くす結果を招いた。

信用というのは一度、地に落ちると疲れた鴉のように黒々と道端に転がるだけである。二度と鴉は立ち上がる気力はないけれど最後のカを振り絞って私はブログを再度書く。

 それは私を保育園に戻せと言う人々が、存在してくれたという事実を知ったからです。誰、がどのような言葉で私を「しっかりしろよ」とお尻を叩いてくれたのかは聞いていないけれど、励ましてくれてありがとう。

「貴女は優しい人間だよ」って認めてくれてありがとう。

 三重県津新町のPEERの皆さん! 津新町で、出会った優しい皆さんにお礼を申し上げます。そして東大阪市の小坂病院主治医渡遺琢也先生心からお礼申し上げます。勇気と生きる覚悟を頂きました。

 Hauser Stjepan Cellさんには、多くの幸せとあなたの美しい音色は、私を癒し幸せを頂きました、皆さんへ心よりお礼を申し上げます。

 私は、生き方のへたくそな人間ですが「頑張ってみるぜ!」これからもよろしくお願いいたします。

私の大好きな優しい人々へ。

2024年3月5日 吉田公恵

お別れのメッセージ

 2023年12月16日 三重県より東大阪市に帰ってきた。三重県で過ごした私は、仕事をする目的があったのは事実だが、夢破れて戻るべく自分の行く末を如何にすべきか。
仕方のない選択であった。
もう一度、東大阪市に戻るために、引っ越しをサカイ引越センターに頼んだのは、当初三重県に引っ越した時、非常に丁寧な仕事で、若者たちに世話になり、感激した印象が強く残り再度、お願いすることになった。

 引っ越し荷物を整理するにあたり思いがけなく、10年近く仕事をした、あやめ保育園のWildstrawberry組の職員と子ども達のお別れのメッセージを送られて来ていたことを私は知らないままにいたのだが、荷物の中に梱包されていたのを発見して胸が熱くなった

2 0 2 4年1月8日吉田公恵

K君が変えた運動会の話

下肢麻痺児K君

 エンゼル保育園は障碍児保育を積極的に受け入れてきたが、K君は下肢麻痺症状で日常的には、保育士の全面介助を必要としていた、保育の一環として運動会が近づきK君の両親、担当保育士、主任保育士の私、で話し合いを持った。
母親の意向は徒競争を他児と共にK君を参加させたいと意思表明をされたのである。
私たちは、他児とK君を共に走らせるのは精神的にK君が寂しい思いをするのではと危倶したのである。

 真っ青な空に白い雲が広がった秋晴れの運動会の日。毎年、エンゼル保育園は、小学校の運動場を借りて盛大に行ってきた。
年齢ごとの徒競走が終わり、最終プログラム、卒園児の徒競走が始まった。スタートラインに並んだ5歳児の6名は保育士の笛の音で走り出し、K君も膝を曲げて車輪のついたボードに乗り、手で漕ぎながら他児に引き離されながらも追いかけていく。

 その姿は、広がる空の青い空間と白い雲の明るさは、観客の応援の声と拍手に誰の胸にも涙と感動に包まれ総立ちになって清らかな思いに満ち溢れた。

 エンゼル保育園に障碍児保育を受け入れていることに違和感を持ち排斥しようとした保護者の感覚を根こそぎ変えたことを忘れられない。K君の力は、当時、存命であった理事長・園長であった吉田弘美と主任保育士吉田公恵の宝ものである。
翌日、保護者の意識は、障碍を持つK君の勇気ある健闘に対する話題に明るく弾み、エンゼル保育園は障碍児保育に優しいと嬉しい評価を頂くようになった。

 卒園時、K君の母親は卒園記念として籐で編みこまれた背の高い仔馬を残してくださったのだが、現在も3階のホール前の扉の前に立ち、エンゼル保育園の子ども達を見守ってくれている。

桂浩子 先生とT君親子

 私の保育理念の根本は桂浩子先生の出会いによりT君親子との出会いをもたらされて成長したのだと年齢をかさねるほど強く迫って来る。
エンゼル保育園に勤務していた頃、その日は大阪府保育協議会の研修講師の指名を受けて講義に出かけて終了後、帰宅時、近鉄電車の中に中学生らしく背丈の伸びたT君親子が並んで座っていた。「吉田先生!」と叫びながら子どもの時と変わらぬ親しみと懐かしさを涙と共に興奮を爆発させて駆け寄り私を抱きしめた。悲鳴に似た大声は、車内乗客の耳目を集めた。

 桂浩子先生が、長いコートを着た姿でT君親子を伴って来られたのは初冬の日だった。
畳敷きの部屋に通すと桂浩子先生は、畳の部屋にべたりと座り俯きがちで畳のヘリに指を立ててむしる姿に「あんたにこんな難しいケースをお願いしてごめんね」と恥ずかしさを隠すようにうつむいている姿が、払には年上の彼女が愛おしく、時々視線を向けた。
桂浩子先生は含羞を知る数少ない人である。
どこで見かけたのか忘れたが、背が高く細身のすらりとした体に黒のセーター、白っぽいTight skirtを穿き耳には大きなシャネルのイヤリングを着けている姿を斜め横からすれちがった時、なんと素敵な人だろうとうっとりした記憶がある。

 公務員の女性は、相対的にお洒落に無頓着で地味な人が多いように思うが、桂浩子先生は地味派手?シック? 私の憧れは増した。

 T君親子とエンゼル保育園の生活が始まった。T君親子は遅刻もせず決まった時間に連れだって保育園に通い始め、母親は職員室に出勤し、子どもは保育室に向かう。
母親と私は隣合わせに座り細かな仕事を静かな微笑を浮かべ母親は手伝ってくれる。
桂先生からは鋏、刃物は決して持たせてはいけないという指示を出されていた。
定刻になると母親と子どもは静かに家に向かう姿を見送り緊張の一日は終わりを告げる。

 暑い夏になった。

 私は、市役所に用があり向転車を走らせていると前方から桂浩子先生が自転車で走ってきた。お互いの出会いがしらは、東大阪の35号線の道路の真ん中にどんとコンクリートで固まられて車だけが通る坂道があった時代である。
坂道の横に自転車を寄せて向かい合い、取り留めのない話をかわした。私は日常保育のエプロンをつけたまま仕事をしている姿で自転車に乗り、走ってきたのだが、桂浩子先生は白のブラウスに黒の長めのskirtだった。印象に残る話はないのだが、太陽のギラギラと照りつける下で、30分以ト立ち話をした記憶が残っている。

 京大出身臨床心理士広田先生は、人の観察に厳しい人だが、桂先生だけは、「あの人は良い」と評価を一度も変えたことがない。

 大阪府虐待連絡協議会より虐待問題の啓蒙を促す、映像を作成するという知らせを桂浩子先生から持って来られ「この計画が出て来た時、あんたしか思い浮かばなかったわ」
そしてこの短編の表紙には都野智文保育士(在籍12年間の男性保育士)が(現在は愛知県で保育園の園長をされています)空に飛び上がるポーズをカッコよく撮られている。
私の保育園で保育士として勤務した三名の内、二名は他園で園長になりー名は主任保育士として抜擢されている。

 寝屋川市民営化保育園を受託した時、快く苦情第三者委員をひき受けてくださった桂浩子先生は、不安がっている保護者に対し、私という人間の仕事ぶりをきちんと説明してくださった記憶がある。
しかし、病に侵されている状態を私に一言も漏らさず、一年後、私の保育理論の具体性を表現した新園舎を見ていただくことも叶わず静かに世を去った。
先生の葬式に弔問に来られた女性たちの数の多さに圧倒された私は、子どもたちの虐待問題に対し、専門職として人間の懐の深さ、熱さに深く向き合い戦って来られた歳月を私は改めて思い知らされ彼女と出会えた幸せを思う。

 T君親子は、降車した駅のホームに立ち見送る私に電車の中から半身をのりだし「吉田先生」と叫びながら遠ざかっていく姿に危険を感じながらも二人の姿は、桂先生と共に保育の在り方を考える基礎が、今も私の心に奥深く記憶されている。

桂先生の逝去後、追悼書が発行されて私は2冊購入したが、2冊とも後輩に持って行かれたまま手元に今も戻っていない。後輩たちが、その2冊を虐待問題のバイブルとして今も大切に参考にして繋がれていればいいなと願っている。

ぼくのゆめ・わたしのゆめ

僕の夢、私の夢保育園の卒園記念絵画 (あなたは大きくなったら何になりたいの?)

 私は、子どもたちの卒園記念に、一枚の絵を描かせようと思ったのは、保育園で過ごした思い出の為ではあるけれど、子どもたちの絵を通して将来、何になりたいのか、手掛かりになるものを保護者に記憶してもらえたらと願い、子どもたちに絵で表現してもらいました。

 保育園で生活する子どもたちは、保育のカリキュラムにそって経験をしてきたなかで、楽しかったこと、面白かったこと。したくないことや嫌いだったこともあるかもしれないけれど好きだったことは、どこかに残っているかもしれない。

 興味深かったのは、女児は保育士さんになりたいというイメージが、圧倒的に多かったのは、やはり日常の生活の中で保育士たちのイメージが、強くあるのは嬉しい事であった。
ところが、年月がたつにつれて女児たちのイメージは変わりつつある。

 保育士さんのイメージが薄くなり、「お花屋さんをしたい」「ケーキ屋さんをしたい」と生活に密着したイメージが増えて来ました。「洋服屋さん」もありましたね。
一枚の絵が目に留まりました。画用紙いっぱいに描かれてあったのは、赤ちゃんを腕の先に抱いた女の人の絵です。その絵を描いてくれた子どもは、体が大きくて、大人っぽい? 子どもです。彼女は、「大人になったら助産師さんになって、赤ちゃんを産ませてあげたいの」って言ったので驚きと尊敬の目で私は思わず目を丸くしました。助産師さんという言葉もお話しできるので驚きました。
どうもお母様が、助産師さんのお仕事をされているようですね。

 子どものイメージって、私たち大人が考えている以上に生活の中でずいぶん拡がりを持っているのだなと改めて考えさせられました。

 さて男の子はどうでしょう。保育土さんになりたいというご希望はありませんでした。
当園では男性保育土さんを積極的に雇用していた割には、まだまだ保育士さんのイメージは女性の姿だったのでしょうか。

 現代の、男女雇用は、子育ても男女共にという基本的な考え方には子どもたちにはまだまだ遠いのかな。男児の夢では圧倒的に多かったのは、消防士さんです。
一年に一度、消防土さんの訪問で子ども達はとても楽しみにしていました。子ども達にとっては消防土さんの姿はとってもカッコいい職業の一つのようですね。
宇宙飛行士さんのイメージはどこからでてきたのでしょう。
制服を着ているお巡りさんのイメージはパトカーとセットになっているようです。

 ところで、男児はお医者様のイメージも出てきました。保育士さんの話では、歯医者さんに診察を受けた経験からイメージが湧いたようです。きっと痛くないように上手にしてくださったお医者様のイメージが残り、憧れが生まれたのでしょうか。

 子どもの頃から将来の自分のなりたい職業のイメージトレーニングをさせることは大切ではないかと思い到りました。この文章を書きながら私は、corona禍の中で保育の在り方を疎かにしていたのではないかと反省し、保育士さんのイメージをより高めなければ、保育士さんの数を確保できなくなるのではと不安になりました。

 ところが、年数が、経つにつれて男児は、お医者さんの希望が増えてきました。
絵の中に歯医者さんのイメージがきちんと描かれてあるのには、感心しました。
私は、母親気分? 祖母気分? で、お医者さんになってくれたらカッコいいな、生活には心配ないだろうと思ってしまいます。卒園児の二人からお医者さんになりたいという子どもがいたので、私は、帰宅途中で会った母親に言っちゃいました「お母さん! ○○君はね大きくなったらお医者さんになるって絵にかいてくれたのよ。応援してあげてね」母親もニコニコして喜んでくれました。その絵をお部屋に飾ってイメージを付けていってねと余計なことまで言っちゃったのは私の中で医者の職業を尊敬もあるけれどエリート意識が何処かにあるのでしょうね。

8月

 Corona禍がまた頭をもたげてきた中に若い26歳のお医者様が疲れ切って自殺をしたというニュースが流れてきました。
保育、教育、高齢者問題の最前線にたっていなければならない私は、corona禍の中で保育の在り方、人間の在り方を考察し、提言すべきことを私的なことに振り回され指の隙聞からボロポロ振り落としてしまった。Corona禍は私の健康は防御できたけれど、自分が守らなければならない子どもたちの在り方を多方面にわたる角度から考察する視点を見失ってしまったのではないかとこれから見直していきたいと反省しております。

どのような全体図にするか。考えてみました。

  1. 先ず子どもの希望の職業別を把握して■、●等の図面に入れてみる。
  2. 職業別に分けたら絵をいれてグループごとの子どもの名前をいれる。

その隙聞に私の文章をいれてみる。かなりの数になりますので小さくするけれども大きくにもなるやり方はありますね。

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