下肢麻痺児K君
エンゼル保育園は障碍児保育を積極的に受け入れてきたが、K君は下肢麻痺症状で日常的には、保育士の全面介助を必要としていた、保育の一環として運動会が近づきK君の両親、担当保育士、主任保育士の私、で話し合いを持った。
母親の意向は徒競争を他児と共にK君を参加させたいと意思表明をされたのである。
私たちは、他児とK君を共に走らせるのは精神的にK君が寂しい思いをするのではと危倶したのである。
真っ青な空に白い雲が広がった秋晴れの運動会の日。毎年、エンゼル保育園は、小学校の運動場を借りて盛大に行ってきた。
年齢ごとの徒競走が終わり、最終プログラム、卒園児の徒競走が始まった。スタートラインに並んだ5歳児の6名は保育士の笛の音で走り出し、K君も膝を曲げて車輪のついたボードに乗り、手で漕ぎながら他児に引き離されながらも追いかけていく。
その姿は、広がる空の青い空間と白い雲の明るさは、観客の応援の声と拍手に誰の胸にも涙と感動に包まれ総立ちになって清らかな思いに満ち溢れた。
エンゼル保育園に障碍児保育を受け入れていることに違和感を持ち排斥しようとした保護者の感覚を根こそぎ変えたことを忘れられない。K君の力は、当時、存命であった理事長・園長であった吉田弘美と主任保育士吉田公恵の宝ものである。
翌日、保護者の意識は、障碍を持つK君の勇気ある健闘に対する話題に明るく弾み、エンゼル保育園は障碍児保育に優しいと嬉しい評価を頂くようになった。
卒園時、K君の母親は卒園記念として籐で編みこまれた背の高い仔馬を残してくださったのだが、現在も3階のホール前の扉の前に立ち、エンゼル保育園の子ども達を見守ってくれている。
桂浩子 先生とT君親子
私の保育理念の根本は桂浩子先生の出会いによりT君親子との出会いをもたらされて成長したのだと年齢をかさねるほど強く迫って来る。
エンゼル保育園に勤務していた頃、その日は大阪府保育協議会の研修講師の指名を受けて講義に出かけて終了後、帰宅時、近鉄電車の中に中学生らしく背丈の伸びたT君親子が並んで座っていた。「吉田先生!」と叫びながら子どもの時と変わらぬ親しみと懐かしさを涙と共に興奮を爆発させて駆け寄り私を抱きしめた。悲鳴に似た大声は、車内乗客の耳目を集めた。
桂浩子先生が、長いコートを着た姿でT君親子を伴って来られたのは初冬の日だった。
畳敷きの部屋に通すと桂浩子先生は、畳の部屋にべたりと座り俯きがちで畳のヘリに指を立ててむしる姿に「あんたにこんな難しいケースをお願いしてごめんね」と恥ずかしさを隠すようにうつむいている姿が、払には年上の彼女が愛おしく、時々視線を向けた。
桂浩子先生は含羞を知る数少ない人である。
どこで見かけたのか忘れたが、背が高く細身のすらりとした体に黒のセーター、白っぽいTight skirtを穿き耳には大きなシャネルのイヤリングを着けている姿を斜め横からすれちがった時、なんと素敵な人だろうとうっとりした記憶がある。
公務員の女性は、相対的にお洒落に無頓着で地味な人が多いように思うが、桂浩子先生は地味派手?シック? 私の憧れは増した。
T君親子とエンゼル保育園の生活が始まった。T君親子は遅刻もせず決まった時間に連れだって保育園に通い始め、母親は職員室に出勤し、子どもは保育室に向かう。
母親と私は隣合わせに座り細かな仕事を静かな微笑を浮かべ母親は手伝ってくれる。
桂先生からは鋏、刃物は決して持たせてはいけないという指示を出されていた。
定刻になると母親と子どもは静かに家に向かう姿を見送り緊張の一日は終わりを告げる。
暑い夏になった。
私は、市役所に用があり向転車を走らせていると前方から桂浩子先生が自転車で走ってきた。お互いの出会いがしらは、東大阪の35号線の道路の真ん中にどんとコンクリートで固まられて車だけが通る坂道があった時代である。
坂道の横に自転車を寄せて向かい合い、取り留めのない話をかわした。私は日常保育のエプロンをつけたまま仕事をしている姿で自転車に乗り、走ってきたのだが、桂浩子先生は白のブラウスに黒の長めのskirtだった。印象に残る話はないのだが、太陽のギラギラと照りつける下で、30分以ト立ち話をした記憶が残っている。
京大出身臨床心理士広田先生は、人の観察に厳しい人だが、桂先生だけは、「あの人は良い」と評価を一度も変えたことがない。
大阪府虐待連絡協議会より虐待問題の啓蒙を促す、映像を作成するという知らせを桂浩子先生から持って来られ「この計画が出て来た時、あんたしか思い浮かばなかったわ」
そしてこの短編の表紙には都野智文保育士(在籍12年間の男性保育士)が(現在は愛知県で保育園の園長をされています)空に飛び上がるポーズをカッコよく撮られている。
私の保育園で保育士として勤務した三名の内、二名は他園で園長になりー名は主任保育士として抜擢されている。
寝屋川市民営化保育園を受託した時、快く苦情第三者委員をひき受けてくださった桂浩子先生は、不安がっている保護者に対し、私という人間の仕事ぶりをきちんと説明してくださった記憶がある。
しかし、病に侵されている状態を私に一言も漏らさず、一年後、私の保育理論の具体性を表現した新園舎を見ていただくことも叶わず静かに世を去った。
先生の葬式に弔問に来られた女性たちの数の多さに圧倒された私は、子どもたちの虐待問題に対し、専門職として人間の懐の深さ、熱さに深く向き合い戦って来られた歳月を私は改めて思い知らされ彼女と出会えた幸せを思う。
T君親子は、降車した駅のホームに立ち見送る私に電車の中から半身をのりだし「吉田先生」と叫びながら遠ざかっていく姿に危険を感じながらも二人の姿は、桂先生と共に保育の在り方を考える基礎が、今も私の心に奥深く記憶されている。
桂先生の逝去後、追悼書が発行されて私は2冊購入したが、2冊とも後輩に持って行かれたまま手元に今も戻っていない。後輩たちが、その2冊を虐待問題のバイブルとして今も大切に参考にして繋がれていればいいなと願っている。