吉田公恵の本好きは何処から生まれたのか。

1945年1月1日の明け方、母弘美の体内から公恵は産声をあげた。傍で見守っていた父長太郎は、生まれて来た赤子を見てがっかりして自分の寝床にそそくさと行き布団をひっかぶったのは、正月の元旦に生まれる目出度い子どもだから助産師は生まれる子どもは男の子だろうと言っていたのだが、父の夢が破れてがっかりしたと母弘美はいくどか笑い話のように話している。

1945年8月6日、午前8時15分広島市上空六百地点で原爆が炸裂した。5千度の強烈な熱線と爆風は広島をのみこんだ。

《無謀な戦争を遂行させ原爆投下を招き寄せた日本の戦争指導者と平然と原爆を投下したアメリカは許せんと思った》

《人間とは愚かで、人種偏見、宗教、兵器を量産して儲ける死の商人共の策謀で、この地球上では絶えず、紛争が続き、戦争と核兵器使用の危機は果てしない》はだしのゲン作者中沢啓治

私の名付け親は京都の高名なお坊様だと聞かされている。一千円を謝礼として名前を付けてもらったのだと父と母はことあるごとに私に自慢するのである。

日本名吉田公恵、韓国名金恭鳳(キムコンボン) (お坊様がつけてくださった名前) (のちに金順任キンスンニムは韓国の親戚の子どもの順序で名づけられていたことが判明)

終戦直後の日本は結核菌が蔓延し、私は結核菌に侵されたために、幼稚園には行かれず、母親の買ってくれる絵本が唯一の友達であり、絵本の世界が、夢を育む心地よい私の空間であった。特に記憶するのは絵本の中に描かれた日本の農家のひさしにつるされた柿の色の鮮やかさ。今でも思い浮かぶ。

空の青さと地面の茶けた色が、80年も前の絵本であるが、田舎の農家の風景はごく普通のものであると思われるが、私は今も忘れられないのは、絵本には暖かさがあったのではないだろうか。父と母は仲の良い夫婦ではなかった。いずれ何時か、母吉田弘美が歩んだ厳しい生涯について書くつもりだ。子ども心にも家庭の冷たい空気が、絵本の日本的な日常の農家ひさしの軒につるされた柿は、暖かな雰岡気を子ども心に柔らかく響いたのだろう。私の童話と絵本、後に小説との出会いは日本のありふれた日本家屋の軒につるされた柿の赤い色が始まりであったが、私の成長の節目には必ず私の心を捉える憧憬と夢を広げ自分の世界観を作る源になる様々な本との出会いは、日本の穏やかな生活感の原風景とは切り離せない私の生い立ちの出発点であった。

小学校三年生頃には、“ジャンパルジャン” “巌窟王”に夢中になり胸をはずませ、“罪と罰”の重みのある話に私は、まだ理解するには難しかったが生きることの厳しさを多少なりとも感じることがあったのかもしれない。“小公子” “小公女”は幾度、読み返したことか、絵本だったり、童話であったり、漫画でもあったが、それぞれの表現の違いはあるけれど私は幾度も読み返した本の題名である。小学校六年生頃には“十五少年漂流記” “ロビンソンクルーソ”はなぜか男子が好むような本は、私はどきどきしながら楽しむのは“十五少年漂流記”は親からの自立心の願いがあったのかも知れない。子どもたちだけで無人島での生活は創意工夫の楽しさと何が起きるかわからない。冒険心がこの本の持つ魅力に幾度も読み返す愛読書になったのである。

それは、私の人間形成においての原点であるかもしれない。憧憬と冒険心、困難な険しい道へ強いて行こうとする性格はここ迄に出会ったご本たちに培われたのだろう。思春期を迎え私は、ますます読書にのめりこみ、文庫本を手あたり次第に読み始めて言うなら活字中毒者の始まりであった。それは母吉田弘美の存在が、私を活字中毒者に育てた張本人だからです。

母吉田弘美は、三人兄弟の長女に生まれ妹は三歳の時、白血病で亡くなり、弟は日本の侵略戦争の学徒動員にて戦死した。その後、一人娘として大切に育てられていたが、弘美の父はハンサムで金持ちだったので女性にもてて父と母はしょっちゅう女性問題で家の中はもめ事が多かったと、私は母弘美から幾度も聞かされている。

弘美は父母のいざこざから逃れるように文学の中で幸福な家族を描いて楽しむことが、公恵に引き継がれていったのは自然の流れでもあった。林文子“浮雲” “夏目漱石”“吾輩は猫である”ざっと取りあげただけでは書ききれないほどの本が、私には宝物であった。

私たち家族は、東大阪市若江東町の駅に近いところに天理教の洋館を借りて住んでいたのだが、一階の広々とした応接間にイギリス製のマホガニー色の堂々とした本棚に、母が収集していたらしい洋書が、並べられてあった。井上靖 “敦煌”の中身は私には年齢にふさわしいとはいえないが、文字だけは迫っていたのに中身については少しもおぼえがないのはよほどむずかしかったのではないだろうか。母が “女学生の友” を買ってくれたのは、何時の頃だったろう。母の若い頃の愛読書だったのだろうか。母が喜々として “女学生の友” を胸に抱えて私に与えてくれた日、私は挿絵の美しい女学生と男子学生の絵に胸を躍らされた、それは初恋の始まりを暗示する優しい物語だったと思うが、私は絵画にはまりだすきっかけにもなった。

高校生になると “女学生の友” を中心に西洋文学に没頭するようになったヘミングウェイ“誰が為に鐘がなる”をはじめとして“嵐が丘”は胸のときめきを「文学ノート」を作り読み終わった題名をひそかに書き込むことに心躍る喜びがあった。一人の作家を読み始めるとその作家の本は全て読みとおさなければいられないのである。

18歳の時、“嵐が丘” ロマンローラン“魅せられた魂” “嵐が丘”との出会いは険しい人生の岐路にたつ自分の姿に身震いを覚え私は、嵐が吹き荒れる丘に立ち険しい山の向こうに人生の指針に出会った私は女性の生き方を学び、人間はいかに生きるべきか?多くの本で学び、謙虚に生きる自分を見出したかったのである。

イプセンの “人形の家”ノラデスに描かれた男性中心社会において犠牲を強いられて多くの女性の哀しみに思い至り、それは母が残した社会福祉事業を通して出会った多くの母親たちの姿と声なき声を聴き幼い子ども達のために耳を傾ける自分の姿がある。

私は、文学を通して自己形成をしてきたと思うのは、文学の中で描かれた多くの作者たちの血と肉を読者たちに与えた功績は言葉で言い尽くせない素晴らしい贈り物を私達は受けて来た。

改めて文学と向き合い、人間の根源に迫り真実をコツコツと積み掘り起こしていきたいと私は願っている。

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