Stjepan Hauser Celloとの出会い

気持ちが滅入ってどうしょうもない日だった。スマホから男性のチェロを奏でるメロデイーが流れ瞼を閉じた私の全身を満たしてくれる。
男性チェロの音色をこんなにも愛おしく感じたことはなかった。
その日からだろうか、毎日のように聴くようになったのは・・・私の側にいた女性もファンになったのは心が疲れ荒れ果てていた。

LINE NEWS フォー Kimie Yoshida

命乞いする親子を機闘銃で・・・父の手記に絶句。<はだしのゲン>を翻訳した無名のドイ
ツ市民。他7か国語など綱訳されて海外でも広く読まれていると聞く。イギリス、日本でもミュージカルになり、大好評を博した。人種偏見、宗教、兵器を量産して儲けようとする死の商人たちの策略は果てしなく、現代社会では紛争と戦争を絶え間なく核兵器の使用を私たちに突き付けられるのは何故だ?
天皇のために死ぬことが誇りであると教えた戦争教育は日本人を、簡単に命を捨てる人間にかえてしまった。

うみかば かばね
やまかば くさかばね
おほきみの にこそなめ
かへりみはせじ

ただひたすらに日本の勝利を伝じて日本人の命が陸海空に飛び‘散った・・・

Kimie Yoshida

Stjepan Hauser Cello 3

貴女のような友達は人生でなかなか手に入らない。

貴女がいてよかったと思わなければなりません。

素晴らしい一日を過ごしてね。

貴女のような友達は人生で見つけるのは難しい。

あなたがいてよかった。

NHKハートネットさんへの投稿 Kimie Yoshida

戦争と差別の時代は終わっていない。日本の第二次世界大戦80年後、今なお様々な問題を黙認し、逃げようとする、勇気を出せ!! 心有る者たちは全て解決して日本国民に豊かな人間性を取り戻す作業をして生かすことが政治家の芯のある力だ。

Kimie Yoshida

Stjepan Hauser Cello 2

お忙しいStjepan Hauserさんありがとう。お話を頂ければ嬉しいです。
待っています。
どういたしまして、今何をしているんですか
Stjepan Hauser Celloさん最初に見た涙のポート最近、見たのですが、もう一度みたい。

民族の悲劇はいつまで続くのか悲しみ、苦しみを誰が、終わらせるのか?
終わりはないのに! 誰にも終わらす勇気はないの? 死を恐れないのは誰?
死を恐れない輩は、誰だ? 親はいないの? 恋人は、いないの? 子どもはいないの?
誰も責任はとれないの?

愛と哀しみのロンドを歌うあなたには、夢見る若い恋人だけが。生きる喜びに満ちて世界を楽しく渡るボートを漕ぐ若者たちに未来を描けない。

今、世界は危機的状況にあっても何も、感じない人々は考えない。愉楽に溺れ楽しむ人々に明日はない。

今の、私には、何もみえない。誰も、いない世界で泥沼に私はなすすべもなく座り込むだけだ。私の言葉が、何になる。書く場所がなくても座り込むだけの無力な私には息も吐けない。

私は、なぜこの世界に生まれたの、もっと楽しく生きられる場所が、私にはあるはずなのに私には、居場所がない。息することさえできない私は。どうすればいいのです。でも私は、話さないと苦しいのです。誰もがなぜこの地獄の苦しみを鉢合わせなければならないのです。誰が、どんな言葉を…

Kimie Yoshida

Stjepan Hauser Cello 1 初恋オマージュ

男が泣かないっていつも聞いた。
憧れがただの過去の記憶
苦しみの夜、聞きたくなかった言葉・その瞬間に時間が止まった。
痛みが深すぎて息がとまらなくなった。
これ以上、間違ったことはない、何故なら
この痛みはゆっくり消えるから
恋に落ちていた可哀そうな私の心。
貴女の声のメロデイーを聴くと私はノスタルジアを感じる。
私たちが生きた愛を覚えていない日はない…
貴女が、行くのを見る準備が出来ていなかった。
私は、既に貴女の中にさようならを持っているように感じていたけれど
そして、去り行く貴女は私の全てを奪った。私の笑顔さえも。
あなたと過ごした時間と瞬間もう二度ともどってこない。

Stjepan Hauser Cello

機織り少女の話

土に挿すと小さな枝から根が生えて、白、紫、赤紫、桃色の花が咲く木、木槿(ムグンファ)。毎朝、花が咲き変わり、踏まれても折られても咲き続けるたくましい木で、韓国の国花である。

16世紀末、日本の豊臣秀吉は二度、朝鮮侵略をした。朝鮮では「壬辰・丁酉の倭乱」と呼ばれる。一五九三年、日本軍は平壌まで侵略したが、朝鮮義兵の抵抗と明軍の反撃を受け、李舜臣将軍の指揮によって補給路を断たれ苦戦し、一旦講和をした。

一五九七年、日本軍は再び侵攻。しかし、朝鮮・明の連合軍と戦い、一五九八年、豊臣秀吉の死によって撤退した。戦争は終わったが、豊臣秀吉は倒れ、朝鮮の国土は焼き払われ荒廃し、数十万の朝鮮人が殺された。多くの民家や荘厳な建物や寺院も焼き払われ、明もまた戦乱によって滅びた。この時、捕虜となって日本に連行された者の中には絵師、書師、陶芸師、細工師、織物師などがいた。捕虜の中に儒学者で李退渓(李鴻)の学統を継ぐ姜沆(カンハン)がいた。

姜沆は南原市落城後、藤堂高虎の軍に捕らえられ日本に連行されたが、京都に呼ばれ藤堂家に影響を与え、日本の朱子学の発展に寄与したと伝えられている。

この戦争は「焼き物戦争」とも言われ、有田焼、萩焼、薩摩焼などは朝鮮の陶工が始めたものである。沈寿官は佐賀に移り住み、日本で初めて磁器を製造。陶工15代沈家は今も薩摩焼を作り続け、鹿児島で暮らしている。

当時、土佐の大名・長宗我部元親も秀吉の命令で兵を連れて朝鮮に侵攻し、家臣の小谷与十郎は美しい朝鮮の少女三人を連れてこようとしたが、二人は船に乗せられる前に逃げ、もう一人の少女は船に乗せられる直前に海に飛び込み、波間に消えた。

残った少女は小谷与十郎の命で日本に連れてこられ、上川口の村に住むことになった。村は緑の松原に囲まれ、銀色の砂浜が広がり、貝殻が打ち寄せ、潮吹き鯨も見える美しい場所だった。少女は機織りを始め、その美しい布は評判となり、村の女たちが機織りを習いに訪れた。与十郎は少女のために立派な家を建て、庭に木槿の花を植えた。

村人たちは「日本人の嫁になってこの里に住んでほしい」と願い、与十郎も息子の嫁にして機織りの技術を広めたいと思ったが、少女は「朝鮮の父母のもとに返してください。帰れなければ死んだ方がましです」と言った。年月が経ち、木槿の花が咲き、少女は機織りながら故郷の話をするようになった。糸紡ぎを習い始めた頃、唄いながら布を織ったこと、木槿の花を髪飾りにして踊ったこと、ハルモニ(おばあちゃん)に草餅の作り方を教わったことなどを語った。

楽しい日々も、日本の兵士が機織り部屋に雪崩込み、自分たちは捕まえられたと涙ぐむ少女の話を聞くたび、村人は日本の兵士に怒りを覚え、少女に同情したという。

長い年月が経ち、少女は亡くなり木槿の花も咲かなくなったが、機織り少女の話は里の人々の子どもから孫へと語り継がれ、「朝鮮の国女」の墓として今も守られている。毎年、桜の花が満開になる頃、近くの小学生たちが墓を訪れ、先生から少女の話を聞き手を合わせる。昔は村人も墓に集まり、酒盛りをしながら少女を偲び、朝鮮の歌を唄い踊ったという。

トラジ トラジ トラジ
白いトラジの花 見つめて
母をしのぶ たそがれ
風は優しく揺れるよ
エイヘイヤ エイヘイヤ エイヘイヤ

トラジ トラジ トラジ
髪にトラジの花 飾れば
過ぎた昔 なつかし
夢もほのかにうかぶよ
エイヘイヤ エイヘイヤ エイヘイヤ

2019年4月26日、北京経由で大阪同胞訪問団として朝鮮民主主義人民共和国・平壌入りした、大同クリニックの姜健作氏より「むくげの花の少女」(作:上野雅江、絵:上野末丸)という本をいただきました。

この本をどのようにして入手できたのか、残念ながら記憶は定かではありません。しかし、手元にあるこの本は愛しく、手放せません。それは、朝鮮人の少女が16世紀末、日本の豊臣秀吉による二度の朝鮮侵略の時代に生き、機織り技術を日本の片田舎で広めていたという話だからです。

私は、この題材が日本人の中から生まれたことに深い感動を覚えました。この木(むくげ)を朝鮮の子どもたちにも知ってもらいたいと思います。現代の日本社会では人権意識が学校内でも育っているだろうと思いつつ、朝鮮人と日本人の生活の深い絆が16世紀に生まれていたことを知ってもらいたいという思いが湧き上がり、この物語をブログに載せさせていただきました。

作家の方に無断で掲載してしまったことをお詫びし、急いで探して御礼を申し上げなければと思っております。

戦争は 平和は誰のためにあるのでしょうか?

東大阪市近鉄沿線瓢箪山、瓢箪山駅を降りて東西南北に様々な店舗が並び私が住みなれた愛しい商店街の中に並ぶ小さな洋服店があります。洋服好きで難波デザイナー学院を卒業後、浪速短期大学学長文学博士深田尚彦(11002卒業)卒業証書も頂いております、勿論受験して入学いたしました、(浪速短期大学は後に大阪芸術大字の名称に変更されています)私が、洋服好きなのは生まれ育った影響だと思いますが、母は裕福な家に生まれお洒落好きで特に祝事葬祭事には洋服へのこだわりが強くそのたびにデザイン、マテリアルに拘りました。

中学3年生の頃でしょうか。お正月の準備に忙しかった母が、私に上本町にある近鉄百貨店上六にお金を持たせてお正月に着用する洋服を選んで、買って来なさいと言った事があります。かなりの金額だったと思いますが、私は、心躍らせながら洋服を買いに行きました。

買ってきた洋服は、茶系の色合いに金色の糸が混じったスカート丈の長いフレアースカートのワンピースでした。母が気に入るか心配でしたが、外国のお姫織の様な雰囲気のある洋服を母は、とても喜んでくれました。母はきっとその洋服を自分も着てみたい思いがあったのでしょうか。その時のニコニコ顔を今でもふと浮かびます。

ところが、私の洋服好きは保育園理事長・園長時代には、無理になりました。私の職責が私への疑問を増幅されたのは、マンション住いの私へのバッシングが広がり始めたのです。

金持ちで洋服を多く持っていると言うことが、マンション内で広がり贅沢をしているとことを保育園経営に相応しくないと言う非難の的になりました。それは職場の一人が耐えがたい誹訪中傷を広がらせ私はマンションを出て三重県にマンションを借りざるを得なくなりました。銀行関係の女性が言ってくれたのは(園長先生だから外出が多くて他の園長先生方と会議とのお付き合いがあるから、洋服に気を配るのは当たり前です)と言ってくださった言葉は今でも心が和みます。

しかし、私は職業的にこういう事でも非難の的になるのだなと自戒致しました。其れからでしょうか、洋服を見ても手に入れようと思わなくなったのですが、現実的にはお金に余俗がないのも事実です。洋服を買わなくなって15年くらいかな、若い時から持っている洋服で今は間に合うようになったのです。

何故なら二つの住いの負担が大きくなりました。そこには、統一教会の勧誘が、私の三重県のマンションにもあらわれ始め、それは東大阪に帰りはじめてもなお一度は生駒のヘアサロンの帰りに女性が付きまとい始め、統一教会への勧誘はマンション内の住民の一人も統一教会員と思われる女性が、買い物の行き帰りにも待ち伏せのように始めたことに気づきました。一度は、電車の待っているところに背の高い黄色のジャンパーを着ている男性を私の近くに寄せ顔を確かめさせられていることもありました。

洋服に関心がなくなってずいぶん長くなりましたが、それは私の感性に比合う洋服に出会わなくなったのも大きいですね。
だのに一週間前です。瓢箪山の通りの小さな洋服店前に10着ほどのセーターがつるされていたのです。私の眼に深い緑色のセーターに左右の袖にレースで縁取りされた体にぴったり添うようなとてもエレガントなセーターのお値段はなんと2000円です
私は、最近、洋服を購入したことはないのに足が立ち止まりました。

今は2000円ぐらいでも買っても誰にも何も言われることはないだろうと思いながらでも一瞬ためらったのは何故でしょう。

明日まだ残っていたら明日決めようって思ったのです。そして次の日に行きました。まだ残っていたのです。胸がはずみました。私は、本当にこのセーターを気に入ったのです。

何故こんなに素敵なセーターを2000円でも買えない人が、いるのかなって考えた時、私は、日本の生活状態が、高市首相の中国に対する言動が、日本国民の生活を脅かしている現代在状況を改めて思い浮かびあがったのです。勿論、2000円ぐらい何ともない人はいるでしょう。値段が安いからってデザインを気に入る方はいないと思いますが、とても気に入りました。

私は、こんなにも深い色の緑を見たことがありません。絵画を親しんできた私はこのように深く美しい緑の染色をできるなんて中国ってすごいなって考えてしまいました。

私たちは隣国である朝鮮、韓国、日本、中国、台湾、風景、習慣、農耕民族でもあり人々の容貌は西洋人とは全くちがう、似通ったものが、多い。互いに理解しやすいものは多いはずなのに何故こんなにも距離の近い隣国同士が、争う必要があるのでしょう。戦争の経験を持ち今なお差別と人権意識の欠如にて辛い思いを断ち切れないのか私は辛い感覚を抜きれないのはなぜでしょう。

現在の日本国民は毎日の食べる事さえ厳しい毎日です。政治家はわかっていらっしゃいますか。あなた方は生活費に困らないから国民の毎日が見えないのではありませんか?国民の生活実態を知るために各々の家庭生活実態を理解するべきだと私は強く思います。

中国の経済封鎖の種類が増え始め自転車操業で店を維持している厳しい現実は瓢箪山の商店街も活気がなく店を閉めて撤退している店舗が増えています。

日本国民は心優しくおとなしいから国を自分たちが、我慢して支えるのだと、耐えればいいのだと思っているのでしょうか。

私の大好きな食堂、レストラン日時の出店、時短の工夫にて縮小して工夫されざるをえない厳しい経営が続いています。愛しい瓢箪山の商店街も活気がなく店じまいが増えています。
この状態は日本の街に増加しているのでしょうか?

三日ほど前に電車の飛び込み自殺報道が他の沿線であり瓢箪山の電車到着が遅れると瓢箪山駅のプラットホームに流れました。

胸が痛みます。

可愛い子どもと家族の暖かい愛

昼食を取れなかった私は、食材の買い置きがない事に気づき生駒の近鉄百貨店へ電車で向かった。食材と日常雑貨の買い物をすべく百貨店に入ったが日曜日のせいか家族連れが多く振るわっていた。

一階の食用品売り場に、お気に入りの小さなサツマイモを散りばめた食パンを切らしていたので、売れてしまっていたら困るなと思いつつ買うことが出来たので遅めの昼食を取ろうと思い、三階の喫茶ルームに向かった。昼食時だが、人影は少なく窓ガラスの大きくはめられている窓際の席に腰を下ろした。3歳児と5歳児ぐらいだろうか、子ども二人に若い夫婦が後ろ姿をみせて座っていた。

ウエイトレスさんにサンドウイッチを注文すると、前席に座っているワンピースを着た可愛らしい女の子、女の子の頭越しに男の子もお顔を見せてくれはじめました。
二人ともなにか言葉を交わしているようですが、言葉は聞こえません。私は子どもたち様子が気になり、思い切って先に買い求めたサツマイモデニッシュブレッド三枚入りを手に持ち女の子の処に伺いました。
「お母様、お子さんが、私を気になるようですね。私は長らく保育園の園長をさせていただいてきたのです。今年の3月末で終わりましたが子どもさんには、何か感じることがあるのかな? このパンは私が大好きなのでお嬢さんにあげたくて持ってきました。お兄ちゃんと分けてくださいね、私をみつけてくださったお礼です」

背の高い父親と母親の優しく綺麗な印象に残る素敵な若いご夫婦はとても恐縮されていますが、私お兄ちゃんの姿に感心しました。とてもお行儀がよくて落ち着いています。家族の穏やかで柔らかな雰囲気が日々の生活の過ぎ越しが偲ばれます。私は自分の席に戻り間もなくお父様が「落ちついてお食事をしていただけるようにそろそろ帰ります」
お気遣いの言葉に、青年の父親として家族の中心をしっかりなされているように感じられて胸がきゅっと締め付けられました。私は、思わず男の子に言いました「おとなになったら立派な人になってくださいね」「はいっ!」って元気よく私の眼を真っすぐに見て言ってくれました。背の高いお父様に抱かれた女の子も何度も振り返り私をジーっと見つめてくれました。

静かな優しいご挨拶をしてお別れをしましたが、私の長い社会福祉事業の終わりが来たのだと漸く自覚が私の心身から納得できたのだと。漸く私の心身から納得できたのは、出会った家族の暖かな愛に包まれたからでしょうか。

でも、この日は最後まで私は幸せな時と言葉を頂いたのです。
帰宅するために生駒駅の改札口を抜けて2階のエレベーターの前にたつと一人の女性が乗り込み三台のベビーカーが並びます。ところが、もう一台父親が押してきました。急いでいるようなので私は、遠慮してもう一台の計4台のベビーカーをエレベーターに乗せました。最後の父親は、丁寧なお礼を言ってエレベーターに乗り込みました。
その時、私に一人の女性が私に「優しい人ですね!優しいオーラいっぱい!」と大声で叫ばれたのです。

最後のエレベーターに私と外国人の子どもを抱っこされた家族と最後に来られて乗られた方ですが、エレベーターが静かに止まりました静かに扉のスイッチを押してくださったのは最後の女性です。皆が下りるのを静かに待っていてくださったのです。
私はお礼を言いたかったのですが、彼女の後姿は遠くになりました。

この日の美しい経験は私には宝物になり忘れられない思い出になりました。

※S子様へ、この日の優しい出来事を書かせていただきました。皆さんに知って頂きたく書きましたが、恐らくあなたはまた吐き捨てるようにナセバーナル社にかかせて夢の祭り社(吉田公恵所有)に投稿しているのだと言うのでしょうか。
絵画と写真撮影と選択、文書は私の経験から書いており全てオリジナルの自筆です。それをナセバーナル社に送り校正のうえ「夢の祭り社」に投稿していただいております。

私の障がい人生 その4

キム・ビョンス(韓国在住)

 さて里心がついて高校2年生で大阪に戻った私はやはり学校でブラスバンド部に入部、テナーサックス担当で旧友達とまた吹奏楽演奏に精を出すことになります。

夏休みに入ると秋のコンクールに備えてクラブでは合宿をして練習をします。
個人練習をしている最中に耳から空気が漏れる音と言いますか、ジーッという雑音が聞こえてきて部長に事情を話してそれまでたまに持病の中耳炎を患っていたとき通っていた耳鼻科病院に駆け付けるとすぐ大学病院に行くことを勧められました。

足の手術でお世話になった大阪私立大学病院に診察を受けに行くとすぐ手術した方がいいということで急遽入院手術となりました。

高校1年の時友人と夏に海水浴を楽しんだとき耳に入った水を放置して中耳炎を起こしていたのを病院に行ったり行かなかったりしていたのが元で悪化していたようでした。

手術が終り部屋に戻って麻酔が覚めると無性に喉が乾く。付き添っていた母親に給水器で水を飲ませてもらうのだがどうも片方の口から水が漏れる。夜になると看護婦が私の右目に軟膏薬を目を見開いたまま塗りに来る。どうも顔面右半分が思い通りに動いていないようでおかしい。母にどうも顔半分がおかしいので手鏡で顔を見たいとせがむが母は見なくてよいと取り合ってくれない。

手術のあった明くる日、私が幼いころから非常に可愛がっていた小学生の姪が母親と病院に見舞いに来てくれました。姪は私を見るなり「お兄ちゃんじゃない」と怖がって近寄ろうとしません。私は無理やり母から手鏡をもぎ取り自分の顔を見ると、そこには唇は左側に片寄り目は瞬きもしないで見開いたままの無惨で奇妙な私の顔がありました。話しても左半分だけが動作し、右半分は何の動きも見せない顔面神経障がいを起こしている私の顔がありました。

怪人のような顔をしたお兄ちゃんに映ったので至極当然な反応だったのでしょう。

顔面神経障がいから生じる問題は私に深刻な精神的障がいをもたらすことになります。(つづく)

吉田公恵の本好きは何処から生まれたのか。

1945年1月1日の明け方、母弘美の体内から公恵は産声をあげた。傍で見守っていた父長太郎は、生まれて来た赤子を見てがっかりして自分の寝床にそそくさと行き布団をひっかぶったのは、正月の元旦に生まれる目出度い子どもだから助産師は生まれる子どもは男の子だろうと言っていたのだが、父の夢が破れてがっかりしたと母弘美はいくどか笑い話のように話している。

1945年8月6日、午前8時15分広島市上空六百地点で原爆が炸裂した。5千度の強烈な熱線と爆風は広島をのみこんだ。

《無謀な戦争を遂行させ原爆投下を招き寄せた日本の戦争指導者と平然と原爆を投下したアメリカは許せんと思った》

《人間とは愚かで、人種偏見、宗教、兵器を量産して儲ける死の商人共の策謀で、この地球上では絶えず、紛争が続き、戦争と核兵器使用の危機は果てしない》はだしのゲン作者中沢啓治

私の名付け親は京都の高名なお坊様だと聞かされている。一千円を謝礼として名前を付けてもらったのだと父と母はことあるごとに私に自慢するのである。

日本名吉田公恵、韓国名金恭鳳(キムコンボン) (お坊様がつけてくださった名前) (のちに金順任キンスンニムは韓国の親戚の子どもの順序で名づけられていたことが判明)

終戦直後の日本は結核菌が蔓延し、私は結核菌に侵されたために、幼稚園には行かれず、母親の買ってくれる絵本が唯一の友達であり、絵本の世界が、夢を育む心地よい私の空間であった。特に記憶するのは絵本の中に描かれた日本の農家のひさしにつるされた柿の色の鮮やかさ。今でも思い浮かぶ。

空の青さと地面の茶けた色が、80年も前の絵本であるが、田舎の農家の風景はごく普通のものであると思われるが、私は今も忘れられないのは、絵本には暖かさがあったのではないだろうか。父と母は仲の良い夫婦ではなかった。いずれ何時か、母吉田弘美が歩んだ厳しい生涯について書くつもりだ。子ども心にも家庭の冷たい空気が、絵本の日本的な日常の農家ひさしの軒につるされた柿は、暖かな雰岡気を子ども心に柔らかく響いたのだろう。私の童話と絵本、後に小説との出会いは日本のありふれた日本家屋の軒につるされた柿の赤い色が始まりであったが、私の成長の節目には必ず私の心を捉える憧憬と夢を広げ自分の世界観を作る源になる様々な本との出会いは、日本の穏やかな生活感の原風景とは切り離せない私の生い立ちの出発点であった。

小学校三年生頃には、“ジャンパルジャン” “巌窟王”に夢中になり胸をはずませ、“罪と罰”の重みのある話に私は、まだ理解するには難しかったが生きることの厳しさを多少なりとも感じることがあったのかもしれない。“小公子” “小公女”は幾度、読み返したことか、絵本だったり、童話であったり、漫画でもあったが、それぞれの表現の違いはあるけれど私は幾度も読み返した本の題名である。小学校六年生頃には“十五少年漂流記” “ロビンソンクルーソ”はなぜか男子が好むような本は、私はどきどきしながら楽しむのは“十五少年漂流記”は親からの自立心の願いがあったのかも知れない。子どもたちだけで無人島での生活は創意工夫の楽しさと何が起きるかわからない。冒険心がこの本の持つ魅力に幾度も読み返す愛読書になったのである。

それは、私の人間形成においての原点であるかもしれない。憧憬と冒険心、困難な険しい道へ強いて行こうとする性格はここ迄に出会ったご本たちに培われたのだろう。思春期を迎え私は、ますます読書にのめりこみ、文庫本を手あたり次第に読み始めて言うなら活字中毒者の始まりであった。それは母吉田弘美の存在が、私を活字中毒者に育てた張本人だからです。

母吉田弘美は、三人兄弟の長女に生まれ妹は三歳の時、白血病で亡くなり、弟は日本の侵略戦争の学徒動員にて戦死した。その後、一人娘として大切に育てられていたが、弘美の父はハンサムで金持ちだったので女性にもてて父と母はしょっちゅう女性問題で家の中はもめ事が多かったと、私は母弘美から幾度も聞かされている。

弘美は父母のいざこざから逃れるように文学の中で幸福な家族を描いて楽しむことが、公恵に引き継がれていったのは自然の流れでもあった。林文子“浮雲” “夏目漱石”“吾輩は猫である”ざっと取りあげただけでは書ききれないほどの本が、私には宝物であった。

私たち家族は、東大阪市若江東町の駅に近いところに天理教の洋館を借りて住んでいたのだが、一階の広々とした応接間にイギリス製のマホガニー色の堂々とした本棚に、母が収集していたらしい洋書が、並べられてあった。井上靖 “敦煌”の中身は私には年齢にふさわしいとはいえないが、文字だけは迫っていたのに中身については少しもおぼえがないのはよほどむずかしかったのではないだろうか。母が “女学生の友” を買ってくれたのは、何時の頃だったろう。母の若い頃の愛読書だったのだろうか。母が喜々として “女学生の友” を胸に抱えて私に与えてくれた日、私は挿絵の美しい女学生と男子学生の絵に胸を躍らされた、それは初恋の始まりを暗示する優しい物語だったと思うが、私は絵画にはまりだすきっかけにもなった。

高校生になると “女学生の友” を中心に西洋文学に没頭するようになったヘミングウェイ“誰が為に鐘がなる”をはじめとして“嵐が丘”は胸のときめきを「文学ノート」を作り読み終わった題名をひそかに書き込むことに心躍る喜びがあった。一人の作家を読み始めるとその作家の本は全て読みとおさなければいられないのである。

18歳の時、“嵐が丘” ロマンローラン“魅せられた魂” “嵐が丘”との出会いは険しい人生の岐路にたつ自分の姿に身震いを覚え私は、嵐が吹き荒れる丘に立ち険しい山の向こうに人生の指針に出会った私は女性の生き方を学び、人間はいかに生きるべきか?多くの本で学び、謙虚に生きる自分を見出したかったのである。

イプセンの “人形の家”ノラデスに描かれた男性中心社会において犠牲を強いられて多くの女性の哀しみに思い至り、それは母が残した社会福祉事業を通して出会った多くの母親たちの姿と声なき声を聴き幼い子ども達のために耳を傾ける自分の姿がある。

私は、文学を通して自己形成をしてきたと思うのは、文学の中で描かれた多くの作者たちの血と肉を読者たちに与えた功績は言葉で言い尽くせない素晴らしい贈り物を私達は受けて来た。

改めて文学と向き合い、人間の根源に迫り真実をコツコツと積み掘り起こしていきたいと私は願っている。

私の障がい人生 その3

キム・ビョンス(韓国在住)

私は高校1年から思うところあって一人で手続きをして京都の高校にいわゆる越境入学しました。生活は寄宿舎生活です。京都の左京区にあったこの高校は自然に恵まれ都心からも離れ落ち着いた学校でした。私が入学した前年、この高校はコンクール始まって以来はじめて地方学校の京都が優勝しました。それまでは東京の高校が中央の面子にかけて何をおいても優勝してきた歴史があります。

さて、途中入部となった私は大阪からきたことや足が不自由なことなどから先輩方から非常に可愛がっていただきました。特に忘れられないのはチョン先輩です。日曜日のバンドの練習のときにやってきては私たちと一緒に練習してくれました。大先輩が来て一緒に横で吹いてくれるほど何にも増す励みと勇気を与えてくれるものはありません。

ある日私は楽器を下げて京都三条京阪駅前のキャバレーの裏口からサックスを教えてくれと勇気を出して楽屋を訪ねました。すると、"なにしにきたんや!ここはおまえが来るとこちがう!教えてほしかったらおれが毎週行っておしえたる!"まさにそのチョン先輩がそこのバンドメンバーだったのです。高校を卒業して間もないのに京都のキャバレー界で"ベラミ"といえば大御所です。そういうところでメンバーとしてすでに働いていたチョン先輩の実力たるや相当な腕前だったのでしょう。余談ですが、"イムジン河"をフォーククルセダーズに歌わせた松山猛さんに"イムジン河"の楽譜を渡したと言われるサックスの厶ン グワンスさんは同じ高校ブラスバンド部の2つ上の先輩でいつも体育館で一人で練習しておられた姿が今も目に浮かびます。サックスという楽器は特に低音をスムーズに発声するのが難しい楽器ですが厶ン先輩は非常に柔らかく低音を発声されていていつもあこがれていました。

1年の終りごろの春休みに大阪に帰って兄弟や友人たちに会うと無性に懐かしく里心がつき大阪に戻りたくなりました。
いよいよ私の障がい人生の一大事故が発生します。(つづく)

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