機織り少女の話

土に挿すと小さな枝から根が生えて、白、紫、赤紫、桃色の花が咲く木、木槿(ムグンファ)。毎朝、花が咲き変わり、踏まれても折られても咲き続けるたくましい木で、韓国の国花である。

16世紀末、日本の豊臣秀吉は二度、朝鮮侵略をした。朝鮮では「壬辰・丁酉の倭乱」と呼ばれる。一五九三年、日本軍は平壌まで侵略したが、朝鮮義兵の抵抗と明軍の反撃を受け、李舜臣将軍の指揮によって補給路を断たれ苦戦し、一旦講和をした。

一五九七年、日本軍は再び侵攻。しかし、朝鮮・明の連合軍と戦い、一五九八年、豊臣秀吉の死によって撤退した。戦争は終わったが、豊臣秀吉は倒れ、朝鮮の国土は焼き払われ荒廃し、数十万の朝鮮人が殺された。多くの民家や荘厳な建物や寺院も焼き払われ、明もまた戦乱によって滅びた。この時、捕虜となって日本に連行された者の中には絵師、書師、陶芸師、細工師、織物師などがいた。捕虜の中に儒学者で李退渓(李鴻)の学統を継ぐ姜沆(カンハン)がいた。

姜沆は南原市落城後、藤堂高虎の軍に捕らえられ日本に連行されたが、京都に呼ばれ藤堂家に影響を与え、日本の朱子学の発展に寄与したと伝えられている。

この戦争は「焼き物戦争」とも言われ、有田焼、萩焼、薩摩焼などは朝鮮の陶工が始めたものである。沈寿官は佐賀に移り住み、日本で初めて磁器を製造。陶工15代沈家は今も薩摩焼を作り続け、鹿児島で暮らしている。

当時、土佐の大名・長宗我部元親も秀吉の命令で兵を連れて朝鮮に侵攻し、家臣の小谷与十郎は美しい朝鮮の少女三人を連れてこようとしたが、二人は船に乗せられる前に逃げ、もう一人の少女は船に乗せられる直前に海に飛び込み、波間に消えた。

残った少女は小谷与十郎の命で日本に連れてこられ、上川口の村に住むことになった。村は緑の松原に囲まれ、銀色の砂浜が広がり、貝殻が打ち寄せ、潮吹き鯨も見える美しい場所だった。少女は機織りを始め、その美しい布は評判となり、村の女たちが機織りを習いに訪れた。与十郎は少女のために立派な家を建て、庭に木槿の花を植えた。

村人たちは「日本人の嫁になってこの里に住んでほしい」と願い、与十郎も息子の嫁にして機織りの技術を広めたいと思ったが、少女は「朝鮮の父母のもとに返してください。帰れなければ死んだ方がましです」と言った。年月が経ち、木槿の花が咲き、少女は機織りながら故郷の話をするようになった。糸紡ぎを習い始めた頃、唄いながら布を織ったこと、木槿の花を髪飾りにして踊ったこと、ハルモニ(おばあちゃん)に草餅の作り方を教わったことなどを語った。

楽しい日々も、日本の兵士が機織り部屋に雪崩込み、自分たちは捕まえられたと涙ぐむ少女の話を聞くたび、村人は日本の兵士に怒りを覚え、少女に同情したという。

長い年月が経ち、少女は亡くなり木槿の花も咲かなくなったが、機織り少女の話は里の人々の子どもから孫へと語り継がれ、「朝鮮の国女」の墓として今も守られている。毎年、桜の花が満開になる頃、近くの小学生たちが墓を訪れ、先生から少女の話を聞き手を合わせる。昔は村人も墓に集まり、酒盛りをしながら少女を偲び、朝鮮の歌を唄い踊ったという。

トラジ トラジ トラジ
白いトラジの花 見つめて
母をしのぶ たそがれ
風は優しく揺れるよ
エイヘイヤ エイヘイヤ エイヘイヤ

トラジ トラジ トラジ
髪にトラジの花 飾れば
過ぎた昔 なつかし
夢もほのかにうかぶよ
エイヘイヤ エイヘイヤ エイヘイヤ

2019年4月26日、北京経由で大阪同胞訪問団として朝鮮民主主義人民共和国・平壌入りした、大同クリニックの姜健作氏より「むくげの花の少女」(作:上野雅江、絵:上野末丸)という本をいただきました。

この本をどのようにして入手できたのか、残念ながら記憶は定かではありません。しかし、手元にあるこの本は愛しく、手放せません。それは、朝鮮人の少女が16世紀末、日本の豊臣秀吉による二度の朝鮮侵略の時代に生き、機織り技術を日本の片田舎で広めていたという話だからです。

私は、この題材が日本人の中から生まれたことに深い感動を覚えました。この木(むくげ)を朝鮮の子どもたちにも知ってもらいたいと思います。現代の日本社会では人権意識が学校内でも育っているだろうと思いつつ、朝鮮人と日本人の生活の深い絆が16世紀に生まれていたことを知ってもらいたいという思いが湧き上がり、この物語をブログに載せさせていただきました。

作家の方に無断で掲載してしまったことをお詫びし、急いで探して御礼を申し上げなければと思っております。

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