私の障がい人生 その2

キム・ビョンス(韓国在住)

中学校に入ると体育の時間があり体育の先生は私の足を気遣い、いつも“見学”です。秋が近づくと運動会の練習がはじまります、思春期を迎え始める私には何とも言えぬ疎外感が私を苦しめます。

“パンパラパーン”と勇壮音が校庭の隅から聞こえてきます。ブラスバンド部が運動会の応援歌の練習をしているではありませんか! 近づいてみると、みんな椅子に座って楽器を吹いています。

“これだ!” 私は思わず喝采しました。これだと足が不自由でも関係なく、私はすぐ担当の音楽先生に私も入部させてくれるようにお願いして私の音楽人生が始まります。

長女の姉が美術の先生として私の学校に赴任してきました。

朝はいつも一緒に登校することになりますが思春期に入ります私は、びっこを引きながら歩く姿が、いつも気になって仕方がありません。私は姉と歩きながら商店街のガラスに映る自身の姿を横目で見ながらすこしでもびっこが正常な歩き方に見える方法がないものかと工夫しながら歩いたものです。商店街のガラス窓が過ぎて失望しながらうつむいて歩く私を姉は注意深く観察していたのでしょう。

“あんた男でしょ! 背中を真っすぐにして歩きなさい!” と、叱りつけます。今思うに姉は障がいに負けず堂々と生きることの出来る人間として私を見守り続けていたのでしょう。

そうして私は楽器をとおして学友とかかわり合い学生生活を送ることが出来ました。(つづく)

私の障がい人生 その1

キム・ビョンス(韓国在住)

私の障がいが始まったのは3歳児からだと聞いています。

足の裏に傷がありましたが、母は私の3歳下の子の臨月(結局死産でした)からもう足の傷は大丈夫だろうと6歳上の長女に私を入浴させました。

ところがまだ完治していなかったその傷から当時流行していた結核菌が膝に浸透し結局関節炎を起こし、数回の手術を受けた結果、現在のように膝関節がほとんど曲ることができない障がいを残したままに至りました。

不幸中の幸いは当時の医療技術では結核性関節炎は菌に侵された部位から切り落すしか方法がなかったものを大阪市大の豊島先生に父親が掛け合ってかろうじて膝から下をおとさなくともよい状態で関節の屈伸には不自由が残るものの今の状態で保存していただきました。

さて、私が最後の膝の手術を受けたのが、確か小学2年の頃です。手術後、足の成長を生かすために金具でできたコルセットを左右に装着して通学せねばなりません。朝コルセットを装着してくれたのは長女の姉です。「なんでおれだけこんなんせなあかんのや!」と姉に泣きながら訴えました、すると姉は「なにゅうてんのん!あんた男がやろ!」とまだ年端もいかない弟にそういって叱りました。

もうすこし小学校時代の思い出を・・・
当時私は足が不自由なせいで家の近くの近大大学附属小学校にかよっていましたが、運動会の時担任の芝先生が私を負ぶって走ってくれた記憶は忘れることが出来ません。

それと当時、同級生だった武田君は私に野球を教えてくれました。

今里に住んでいた真鍋和子さんはこんな障がいをもった私をお誕生会の時、家に招待してくれました。

最後に障がいとは別な辛い記憶。小学3年の2学期いつもバスで登校する時一緒だったHさんがバス停で並んで、待っていると「吉田君てチョーセンやったん?」なんとも人を馬鹿にしたような口調に、私は返す言葉を失いました。私は3年の3学期から冬休みの友の宿題をせずに済むと言う自己弁護から姉たちが通う民族学級へ転向を決めました。民族差別的表現と真っ向から立ち向かう勇気がまだ私の中では持ちえませんでした。

民族学校に転校するやすぐ上の姉は私を放課後みんなと遊びに通ったローラースケート場に私を連れて行き、足が悪くてもこれぐらいはしなさいとローラースケートを覚えさせました。私はこれが乗じてアイススケートにどっぷり猷まり、5~6年生の頃には学校をさぼって難波のアイススケート場に足しげく通ったものです。そんな私を見かねて長女の姉が私を長野県のアイススケートのメッカである白樺湖に連れて行きました。

ちょうどオリンピック選手たちが凍ってベストコンディションの湖畔の上で今迄見たこともないスピーで走っているのを目の当たりに、私もなんとか彼らに追いついて走ろうと滑っていると選手の一人が私のところに来て、もっと左足を曲げたらスピードがでるよとアドバイスしてくれました。私はそれからアイススケートを止めました。(つづく)

二人は仲良しきょうだい!

 今日は、近鉄百貨店のレストランで家族のお食事会!おばあちゃまもご一緒です。
ところが、ぼくは、食事を済ませたのでちょっとたいくつしのぎにレストランから出て姉の車いすにのっかってみたくなりました。車いすの二人乗りは、いけないって叱られそうだけど、僕は、一度、二人乗りをしてみたいと思っていたのです。

 ところが、おばあちゃんが、出てきたのは僕がいたずらをしないか心配だったようです。
ぼくが、既に姉の横に二人乗りをしている様子をみておばあちゃんはにっこり笑いだし、手に持っていたスマホで僕たちを写してしまったのです。
「二人が、とっても可愛すぎたから写してしまったわ。」
ママが、みたら怒られそうで心配だった幼いふたりでした。今は、そんなことはできない小学生と中学校生になりました。

 祖母である私が、残しておいた写真を素描にして絵画入れの中に隠していたのは、車いすで悪戯している様子を世の中に出すことに躊躇があったからです。
今回、思い切って孫たちの悪戯を絵画にしようと決心したのは、私の友人だと信じていた人が、障がいをもたざるを得ない人々の状況に対し、不適切な言葉を叩き込み私は、悔しさを我慢できなかったのです。障がいを受け持つ不便さをもたざるを得ない子ども達、若者たち、大人たちに対し、敬意をもって接してと欲しいと願う気持ちをどうしても抑えきれませんでした。

 多くの人々に指導されていらっしゃる西原なおみ先生にお願して最近、私は忙しさの中で絵筆を止めていましたので、作品を新たに描くにあたってどのような①色彩にすべきか、②筆のタッチを如何にすべきか、西原なおみ先生に細やかなご指導をお願いしました。とても明るいタッチで描くことが出来ました。
この場をお借りして心よりお礼申し上げます。※先生に書いてもらったのではないか?疑心暗鬼で言われちゃうかな…と心配しつつ…

 絵とはなにか、今は亡き坂崎乙郎(美術評論家)先生に教わったと思います。
脳の働き、指の動きの良い時、悪い時もあるけれど、

 現在、韓国にて音楽学院を創設して若者を指導している弟の障がいについて申し上げておきます。日本で生まれ育った弟の足について障がい者として彼女は唇をにたりとゆがめ侮蔑の言葉を吐きました。吉田家の家族は、日本の終戦直後、東大阪市若江東町の駅に近い天理教の敷地の奥深い場所にある三階建ての洋館を借りて住みました。100人は生活のできる立派な洋館の造りでした。母吉田弘美はエンゼル保育園の創始者です。私の母方の祖父は、日本の終戦前後以前から京都の西陣織を学び莫大な資産をつくり、大阪市の商店街に店舗を持ち工場には数十名の職人がいたと聞いております。祖父は、借り入れた天理教の三階建てに、吉田長太郎に吉田弘美を嫁がせ、韓国へ帰国する前に若江岩田の国道25号線に3000坪の土地を購入し、父の鉄工所と事務所を建て200名の朝鮮人と日本人を雇用しておりました。

 祖父は、韓国全羅南道康津郡の山身者で、穀物が肥沃な士地でしたが、米は住民の朝鮮人には食わされずすべてが、天皇様に送られるという理不尽さにいつもお腹を空かしている人々に対し日本の植民地施策に腹を立てていたと父が、話していました。

弟吉田泰久の障がいについて。

 天理教の洋館の三階建てに住んだ私たちは、終戦直後であり、進駐軍が朝鮮人を集めて会議をする為に一階の応接間を使いました。その日は、父はパリッとした背広にネクタイを締め、母は鮮やかな朝鮮服を着て参列する姿に幼い私は、胸がどきどきした覚えがあります。
広い庭園にはタイル張りの広い浴槽があり、広い庭に立ちぐるりをガラスに囲まれた浴槽から妹とふたり庭の葉陰から射す木の葉を眺めていました。毎日様々な人々が、お風呂にはいりました、終戦前後です、日本は結核菌が蔓延しており、私は、結核にかかり結核菌が、弟の足に影響を与えたのです。当時、天王寺の市立桃山病院に有名で立派なお医者様がおり、父は大きな声で泣きながら弟の足の手術をお願いしていたことを覚えています。結核の直りの遅かった私は、公立小学校に入学し、妹と弟は、八戸ノ里にちかい近畿大学付属小学校にオシャレな私学の制服を着て通学していました。先生に手術をしていただいたことが功を奏し、足を膝から切断せずに済みましたが、折り曲げられないけれど片足をなくさずに済んだのです。

 祖父母は、一般の船をチャーターして物資を山と積み荒れ狂う玄界灘を越えて祖国、朝鮮に帰国しました。

 弟は、高校時代はプラスパンド部に所属してテナーサックスを毎日のように吹いていたように記憶します。高校を卒業後、銀行に一年間勤め東京の和光大学文学部を4年間、東京のホテルボーイとして片足を引きずりながらレストランの給仕をしておりました、大学生活の資金稼ぎのために4年間頑張りました。

 その後、文学部卒業後、作家でもあった西部百貨店のオーナーの目に留まり西武百貨店にて韓国雑貨や韓国料理を出すようになり破格の値段で百貨店のスペースを貸してくださった。作家であり実業家でオーナーである異色の経営者であった堤清二様の暖かい配慮のもと弟は、事業を始めたのです。

 私にも温かいご配慮を頂き、韓国の画家を西部百貸店のギャラリーを提供されて展覧会を紹介させていただいたことも大切な思い出の数々です。
しかし、私の友人は、その後も家族の孫娘の障がいについて唇をゆがめ持ち出しました。孫娘の下半身麻痺について息子と嫁には何も聞いておりませんが、家族は孫娘を大切に知能には問題は有りませんので楽しく過ごさせております。障がいを持つ人々のしんどさを理解し、明るさを保持できるように優しい心づかいで障がいを持たざるを得ない人々への手助けを少しでも分かちあえるように心から願っております。

吉田公恵

私の絵を返してください!

夢の祭り社を開設するために絵画部門を作りました。

その為に描き溜めて来た絵、全ての作品に額縁を大阪メトロ玉造駅にある絵画、額縁の専門店に十数点発注を出しました。
しかし、そのなかで一点の絵が紛失されたと言うことでもどしてもらえませんでした。

日時が経ちましたが、この絵がどなたかの処でとどまっているのなら返却をお願いいたします。紛失した店舗の名前は書きません。

その当時の女性の店長さんも覚えてくださっていると思います。

私には思い出深い絵です。長男の息子を抱いた嫁の絵です。

慈愛

思い出のフォトグラフ

1.エンゼル保育園卒園児まちゃ君
久しぶりにエンゼル保育園を卒園されたまちゃ君からフェイスブックにコメントを頂きました。
男児の双子さんをお預かりさせていただきとても嬉しかった思い出が有ります。まちゃ家に待望の女の子が授かりまちゃ家と当時のクラス担任だった保育士と記念撮影。
担任の保育士吉田学、小泉繭香は後に結婚しました。

2.給食室女性チーフ、給食職員吉田閏奎、都野智文保育士さんはエンゼル保育園、あやめ保育園にて11年間勤務後、他市にて園長先生になられて現在も頑張っていらっしゃいます。

3.岡本先生もとっても頑張り屋さんで私の考案した保育ロッカーを使い都野智文先生とお遊戯会の舞台背景を素敵にカバーしてくださいました。
吉田閏奎先生は西区てのひら保育園の園長として頑張っています。

4.村川こずえ先生、イラスト、絵画がお上手でしっかりされて、私の片腕として深いお力を貸して頂きました。中西先生は背高のつぼの優しい先生で子どもたちの人気者。長らく音沙汰がありませんが、楽しい保育園生活を協力していただきました。

5.お名前を思い出せなくて「ごめんなさい」可愛い子どもたち、ママのお迎えをがんばって待っていました。お写真の顔がとっても明るくて嬉しいですね。
子どもってやっぱり大好きです。私たち大人を癒して慰めてくれる日を私は、幾度、味わったでしょう。

Nao and Sayaka Love Story

Nao君とSayakaさんは、同じ中学校の先輩、後輩で出会いました。
どうやらSayakaさんは、優しいNao君をとても気にいったようです。
登下校時、お話をするようになって親しくなりました。
Nao君は、エンゼル保育園の卒園児でお家が、近くにあり、いつもニコニコ笑顔の優しいお子さんでした。

二人の交際は、中学校の先輩、後輩で出会い、ライン交換から始まり、二年の付き合いになりました。Nao君の職業は学校を卒業後、桜クレパス株式会社に軽度B1知的障がい者雇用者枠で就職しましたが、現在では、20年間に及ぶ歳月の職業実績を積んでいます。給与面でも実績職員と変りません。

Sayakaさんも知的障がい者、B2の診断をされていますが、キリン堂全国的に薬局を展開されているが、草むしり等の軽便な清掃業も営み、障がい者雇用枠で地方への出動は会社の車にて送迎を受けて従事していましす。

二人の日常生活の交際が1年を過ぎた頃、Nao君のママは東大阪の菱江の駅前ロイヤルホストにNao君とSayakaさんを呼びだし食事をしながら悦ちゃんママが切り出しました。

「ねえ、Nao君とSayakaちゃん二人で一緒に住まない?」

「Nao君と一緒に住みたい!」

 Sayakaさんは即座にきっぱり言ったそうです。

二人に同棲から暮らし始めてはどうかなって勧めたそうです。(まあ!なんと太っ腹な悦ちゃんママ! ?) Nao君のママは二人の息子を授かりましたが、女の子に恵まれなかったのでSayakaさんと出逢えたことがとても嬉しかったそうです。SayakaさんもNao君のママをえっちゃん本名悦子さんなので悦ちゃんママと呼び、実の親のように慕っているそうです。

Nao君のママは、一生懸命、二人で生活できる場所を探し、3室にキッチンのある生活場所を用意したそうです。
それは、Nao君とSayakaさんの生活が誰にも依存しないで生活できる範囲を考えた悦ちゃんママの心づかいでした。「Naoクンは家具、電化製品、住宅の家賃の全てを仕事してきたお金を悦ちゃんママに預金をして来たのです」

身体健全な二人であっても生活をすることは、厳しい時代です。
悦ちゃんママは所帯道具等マンション借りいれ、生活全般の用意はNao君の預金の全てで用意できたそうです。Sayakaさんは自分で貿った物はテレビを乗せる2000円の台車だけだったと悦ちゃんママは複雑な表情を浮かべて漏らしていましたが…Nao君とSayakaさんの深い愛の育みを信じ真剣で真面目な二人を同棲させて生活が始まると、悦ちゃんママはSayakaさんに学研出版社が出している、学研2年~3年のブックを買い与え漢字の練習、ひらがなもスマホのなかでとても整った言葉を習得できるようにしました。その文字は、プログの中でも紹介しますね。お料理の経験のないSayakaさんは毎日することは難しいので外出して食事する日を決めて、自宅でお料理する日も決めました。

お正月とお盆には温泉にいく。

お正月は。蛸さん、だし巻き、コーンクリームシチューを作りSayakaさんは3回5000円を包みNao君のお父様にプレゼントしてくれました。
二人の夫婦として生活が順調に進み始め、Nao君のママは、喜びが増しました。Sayakaさんのお家から結婚祝いとして6万円贈られてきました。

二人の愛らしい生活する姿をみて悦ちゃんママは二人の結婚式を上げさせることを考えると胸がときめきました。

2020年6月27日(土)ベルクラッシックで結婚式を挙げました。
ガラス窓の広々としたパックヤードから差し込む光は、二人を祝福する暖かな喜びが満ちて厳かな空気は緊張をはらみ悦ちゃんママは涙が一粒落ちたように想いました。
Corona禍の中でお客様をお呼び出来なかったのですが、私が、主賓という名目を頂き、結婚式にお祝いの言葉を述べさせていただきました。

エンゼル保育園を卒園された青年の結婚式を挙げるために招かれると言う心躍る喜びに満ちた日、私はとても大きく深い喜びを味あわせて頂きました。
Nao君の同僚の方でしょうか。皆さんのお祝いの言葉を録画で送ってくださいました。Sayakaさんの友人もお二人いらしていただきました。

ベルクラッシックの広く美しいお庭でお写真を何枚も撮らせていただき柔らかで和やかな一日を忘れることが出来ません。

2022年8月温泉に行った思い出、夫婦三人で2回旅行に行った思い出はNao君、Sayakaさんには忘れることはないでしょう。

9月20日、日曜の振替日10時にSayakaさんの病死を知らされた私は、あまりの驚きと悲しみに我を忘れて泣き叫びました。言葉にならない。
二人への思いに、私は、耐えがたい悲しみと憤りが溢れます。Nao君のママと抱き合って泣き崩れました。

Nao君とSayakaさんの結婚生活は、1年と3カ月です。

私は、NaoくんとSayakaさんのベルクラシックの結婚写真ブックを幾度眺めたことでしょう。気持ちが落ち込むとき、二人の結婚式を喜ぶ姿を見ると心が和み私は元気になれました。だのに私は、幾度もみた二人の結婚式ブックを文章に乗せるために探しても探しでも出てこないのです。大切過ぎて何処へしまったのでしょうか。見つからないのです。手持ちのNaoくんの写真をいれましたが。

残念です。

Sayakaさんのお母様はSayakaさんが亡くなった10ヶ月後、後を追うように他界されたとお聞きしました。Sayakaさんが実家へ帰るたびに悦ちゃんママへのお土産としてお菓子を袋いっぱいに詰め込み持たすのは悦ちゃんママが、介護の仕事をされている同僚の幼いお子さんへのお土産を持たしてくれるのです。

Nao君とSayakaさんの優しいLove Storyを皆さんに知ってほしいと願いました。現代社会では真実の愛を見つけられなくて多くの若者が、生きる道に迷っていることが悔しいのです。自分の生きる道筋に自信をもって見つけて欲しいのです。真実の愛情を見つけて生きて欲しいのです。

Nao君は今も、Sayakaさんの処に自転車に乗り行き話しかけます。

「Sayaka! 君は本当に優しい人だったね。」その言葉は悦ちゃんママに今でも何ども伝えるそうです。rSayakaはやさしかったね」

泰泉寺霊園福万寺

あらいけんた君がくれた幸せ

昼食を行きつけの店ですませて、瓢箪山駅に近づくと粉雪が、舞い降りてきた。空を見上げるとブルースカイの空は拡がり、ポカリと白い雲の塊がある。
粉雪はまばらに降りてきて私の頬に伝わる。ふと涙が零れそうな痛みを私の胸を射したが、駅のホームの階段を上り、ホームに降りると駅員のアナウンスが響く。

“乗降されるお客様はホームにご注意ください”

最近、私がホームに佇むとアナウンスが響くのは偶然だろうかと思い、私の姿が、アナウンス室からみえると寂しげに見えるのだろうかと考えてしまうこともある。電車の普通列車が来たので、乗り込むと電車の中は小学生の賑やかな声が聞こえて来た。

隣り合わせた小学生に声をかけると、遠足ではなく社会見学だと元気な言葉を返してくれた子どもたちは枚岡駅で整列をして降りて行き、私は、額田駅で降りて上方に昇らず駅のホームに沿う道を歩き出したが、自分のこれからの生きていく道筋を如何にすべきかと考えると暗く見えない道に胸がふさがる思いがよぎった。

坂道を登り始めた時、私に、こんにちはと声をかけてくれた少年がいた。

「あらつ!私を知っているの?」
「知っているよ、ぼくのお菓子を上げたでしょ?」
「私にお菓子をくれたの?」
「そうだよ、僕のお菓子を友達にあげたのを、おばさんにその子はあげたんだよ。」

そう、思い出しました。私の住む場所から近いところに小学生の少年、少女の家が並び、その家の子どもたちが学校の帰宅時、お家に入る前に女の子も男の子もおやつを食べたり、交換したりするのを見たので、私は勝手に仲間に入りこみ、「わたしにもちょうだい」とおねだりすると仲間うちでは一番高学年の子どもが笑いながら私にくれたのです。思い出しました。

日曜日、今日は、その時にお世話になったあらいけんた君にお返しのお菓子を持って行こうと考えていました。家の前に二度行ったのだが、留守のようで、時間をおいて再び行き声を張り上げて

「ここのお家にあらいけんた君っていませんか?」

と叫ぶと男の子が二階の窓から顔を出して降りてきてくれた。

「この間ね。私にお菓子をくれたでしょう? だからお返しに来たのよ」

と言ってお菓子を渡そうとすると、

「一つだけでいいです」

と断るので私は、

「用意したお菓子はお雛祭りの女の子用の中身になっちゃったけれど受け取ってくれたら嬉しいな」

と伝えると一つだけでいいですと何度も繰り返す子どものお行儀の良さに私はなんとお行儀のよい躾をされているお母様だろうと感心した。そして、彼のお母様は子どもの話を聞いていらしたのかなと改めて私は母親の子どもに対する細やかな部分まで聞くことを家庭の中でされているのだろうと思い、家庭内での親と子の幹をしっかり結ぼれている親子の在りかたを考えさせられた。

礼儀正しい男の子に再度、お願いしてお菓子の袋を受け取って貰えた私の心は、温かく安らぎを覚えた日曜日の午後になりました。けんた君ありがとう。
お母様もありがとうございました。

2025年1月1日新年を迎える私達の明日は

新年を祝うお飾りや食物の献立に供えるお膳を考えて準備する食物の約束通りを以前は考えてきましたが、昨今では自分なりの膳と飾りで省略するようになりました。それはそれで楽しいかなと思う自分を受け入れています。

約束の献立の意味合いの無視は皆さんから見ると抵抗があるかもしれません。

今年度は、お花部分を思い切って変えることでお花の費用をカットしました。

私の家になにかの折に来てくれた血族の甥っ子、姪たちが来てくれた日のカラー写真を飾りに入れてみました。みんな若くてとても明るく元気です。

右端に挟んでいる写真は、兄、妹、弟、は国家の違う3か所の場所にて生活をしておりますので、お正月に会うことは叶いません。

この写真は東大阪市六万寺町に住んでいた頃、山の中腹にある権現寺より少し下がって降りたところに頑丈な大石を組まれた土台の上に200坪の土地の二階家に日本風の庭園70坪に日本庭園風に鯉が泳ぐ池があり、父の意向で若い頃の母を椿の花に譬えていたらしく椿の木を植えられてありました。

一階の客間にはマントルピースがあり真っ赤な絨毯が広がっています。

外国の書籍がはいったイギリス製の頑丈な書棚に母が買い求めた洋書がはいっていました。黒のピアノも置かれてあり、二階は周り廊下に囲まれた寝室と3客聞にお手伝いさんの部屋がありました。広々とした廊下は籐の椅子にテーブルが3客分ずつ置かれてガラス窓から見える大阪府平野を見渡せる景色は壮大でした。

右手側に置いた写真の前方はこの写真では写っていませんが、2面のテニスコートがあり土、日はテニスコートに高校の学生たちが練習に来ていました。私も父にいわれてテニス部に所属したこともありましたっけ。

父は、現在の上皇后様ご夫妻のご結婚が、ニュースになった時、テニスコートでお出会い、結ぼれたことに憧れてテニスコートを作らせたのです。

自宅のある右上方の坂道を上ると200坪の葡萄畑がありシーズンになると会社の労働者が動員されて玄関の冠木門前に置かれた木目のたらいに刈りこまれた葡萄の実を踏み潰す黒紫色に染まる母の白い足が、今も思い出される。

熟成されたワインは、3000坪の会社の敷地の一角に作られている貯蔵庫に運ばれワインの瓶詰をトラックに積み込まれて、販売会社に運送される風景を今も鮮明に記憶が浮かぶのは何時の頃だったのか。

久しぶりに過去の思い出が蘇り、写真にある甥っ子、姪っ子には過去の話で、想像できないだろうけれど、あの家が残りテニスコートもあれば、きっとみんなで集まり家族とは何か、血族の生きるためにどうあるべきか、これからの明日をどのように生きていくべきか… 喧々諤々と盛り上がっただろうか

2025年1月1日を迎えるにあたり

年の暮れに整理していましたところ、コスモス組担任保育士、吉田美帆先生のお別れのメッセージが出てきました。

何と楽しく美しいメッセージをくださっていたのかと改めて美帆先生の勤勉さ、問題の分析力にいつも喜びを感じさせていただいていたことを思い出して感慨深いものがあります。長年、保育園のお仕事をさせて頂きましたが、保育士さんとの出逢いは喜びも悲しみも思い出す事が多くあり、自分自身の感性を豊かにしていただくことが、多々ありました。

その中でも吉田美帆先生は印象深い方です。私と同姓であることから親近感は有りましたが、彼女の印象は、それだけではありません。

おっとりしながらも優しさが作り物ではない大人としての雰囲気を醸し出され、問題の本質をきっぱりと分析でき出来る能力をお持ちでしたことは、10年以上過ぎてもその印象は私の中で変わらない方です。

どのような家庭でお育ちになりどのような育ちの過程をお持ちなのか、あらためて知りたいと思うのは、私の人間分析は職員の雇用時に欠かせないものが印象の重要性であることを今も私の脳裏をかすめ思い出されます。

現代社会で保育土さんたちの様々な姿は私の人間探索の基本なのでしょうか。

皆様に良いお年でありますようにお祈りもうし上げます。

現物のメッセージを出させていただきます。最近の社会の現実は、男子も女子も大人からどのように隠さなければならないかと考えなければならない状況があります。なんという厳しい状況を大人が作り出しているのでしょう。

どうか皆様にお願いします。子どもたちが安心して生きられる社会をサポートしていただけるよう考えて実行を致しましょう。よろしくお願い致します。

2 0 2 4年12月22日 日曜日 吉田公恵

松田写真機店 プリント

生駒駅近鉄百貨店1階 “幡”

 今日も生駒百貨店一階レストラン併用の雑貨店 “幡” 。白色の柔らかさを感じる落ち着いた佇まいに惹かれてやってきたのは、もう数えきれないほどである。

 日本情緒漂う静かな異空間の雰囲気を私は、なぜだろう、心がささくれている時ほど、来ると心が癒され落ち着くのは・・・

 壁際に井上博道氏の白黒の写真が白い壁際に何枚か貼られてあるが、画廊の趣にも感じられて私は異邦人のように包まれるのだ。

 ランチは、和食2種類を魚と肉をメーンにする献立が用意されて、色合いが水彩画のような淡く優しげな味付けは胃に無理がない。

 ランチの時聞が終わるとカレーライスとハヤシライスを用意されているが、他店には見られない独創性のあるカレーライスとハヤシライスのデザイン? が、私には、なかなかユニークで美味しく楽しいのだ。

 ウエイトレスさんたちは、奈良に伝わる地場産業である江戸時代よりさかんに織られている蚊帳(風は通すが蚊は通さないと言う布地)黄色の布をターバン風に包みお給仕される姿の横顔、後ろ姿がとても素敵です。仕事をされている様子はいつも穏やかなそれでいてきりっとした専門的な仕事をしているという甘えのない人たちのように映る。

引用:BAN INOUE SHOP

 お食事を用意される仕事ですから髪の毛が落ちないように配慮、されているのは清潔感があっていいですね。

 夏の蚊帳の布は、蒸し暑い日本の夏にはとても快適に過ごせます。

蚊帳で作られている生活雑貨、布製の軽いパック等、お帽子、ショール等それにお菓子類、お茶その他の多種多様に広がり、土日は老若男女様々な年齢の方が多く足を運ばれて楽しい時間を互いに過ごされているようです。

(MARROW)=骨髄・真髄・核心

そのものの本質や物事の根本になることを意味する。(地球に負担をかけない)「サーキュラーエコノミー」の実践をされて廃棄物や無駄、汚染を発生させないように、原料やリサイクルを想定したうえで製品デザインやサービスをプラン段階から設計の本質を考えていらっしゃるようです。

お洋服の布地も蚊帳で薄手の物から季節に応じた日本製だけどエキゾチックさを感じられるお洋服を試着できるスペースもあります。

写真家井上博道先生《美の脇役》著作大阪芸術大学写真学科に勤務されていらしたことを知り保育学科を卒業した私は、現実にはおめにかかったことはございませんが、なんだか縁を感じられて心が弾みました。

松田写真機店 プリント

2024年11月16日

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